育児放棄権

 最近大阪で起きた幼児虐待事件は、母親の身勝手な行動と二人の子供が死亡するという最悪の結果によって、大きな衝撃をもって受け止められました。

 この問題について、「理解できない」などと言って母親の無責任ぶりを責めることは容易ですが、その態度からは何の改善策も生まれません。幼児虐待事件がこれだけ繰り返される以上、そこには個人の資質には還元できない構造的な原因があると考え、制度設計を見直す必要があります。

 リンク先の産経の記事でも指摘されているように、現行法のもとでは児童相談所や警察など公的機関が強く介入することができなかったり、育児に悩む母親の受け皿となる相談窓口がない、ということも原因の一つです。そのため、行政に踏み込んだ介入を可能にさせるという方法は有効です。しかし、それらは結局のところもぐら叩き的な対症療法に過ぎず、効果は限定的です。

 そもそも、子育てというのは、非常に大掛かりな、おそらく一個の人間が生涯に取り組むプロジェクトの中でも最大級のビッグ・プロジェクトです。20年近くにわたり一人または複数の人間を育て上げ、その人間の知性・情操・健康の発達を促し、社会で生活できるようにしてやらなければならない。しかも、これだけの大プロジェクトなのに、練習はありません。いきなり本番です。取り組む人間の体力的・精神的負担は並大抵のものではありません。

 この困難なプロジェクトに対して、全ての人間に適性や能力がある、と考えることは現実離れしています。本能に従って子育てをすればよい動物と違い、人間の女性は出産して母親になれば、自動的に子育ての能力が身につくわけではありません。母親に向いていない女性はいるし、能力はあってもその仕事が嫌な女性だっている。仕事やスポーツと同じように、子育てにも向き不向きがある。「全ての女性には母性が備わっているので子育てできる。できないとすれば本人の努力が足りないからだ」というのはたちの悪い思い込みです。その思い込みは「全ての女性には数学者としての才能が備わっている」というのと同じぐらい根拠がない。

 そうすると、この問題に対する根本的解決策は、「私は子育てに向いていない(あるいは子育てが嫌いだ)」と判断した母親が、養子に出すなどして育児放棄を可能にする仕組みを作ることです。新生児を匿名で病院に預けられる赤ちゃんポストは、これを部分的に実現したものです。今後は子供がもっと高い年齢になっても放棄できる仕組みが必要になるでしょう。

 児童虐待の問題は、構造的に見れば、結婚や入社と同じマッチング問題です。だからアンマッチなカップルの結合を解除してやれば永遠に解消できます。結婚と入社のケースなら、最悪、離婚と退社という方法によって関係の清算が可能ですが、親子の場合は、子供が成人して自活できるようになってからでないと、なかなか清算が難しい。あまりに両者の力関係が不均衡なので、親の側が自発的に放棄させるよう誘導しないと、いつまでたっても最適でない組み合わせのまま関係が続いてしまいます。

 もちろん、血のつながった親子が関係を断ち切らねばならないという事態は、幸福とは言いがたいものです。しかし、少なくとも子供は死なずにすむし、親は殺人犯にならずにすむ。考えるべきは絶対評価ではなく、相対評価なのです。