無敵のラスボス:山本七平『「空気」の研究』

 東日本大震災は、長らく平和を享受してきた私たち日本人が、久しぶりに経験した非常事態です。この点に異論のある人はいないでしょう。非常時には、平時には見られない特異な現象が矢継ぎ早に起きます。原子力発電所の外部へ放射能が漏れたことによる退避勧告や、西日本への疎開、デマの流布に買い占め騒動。いずれも、大多数の日本人にとっては歴史の教科書や SF 小説の中でしか見たことのない現象が、本当に目の前で展開されることになりました。

 上に挙げたダイナミックな例に比べれば、あるいは目立たないかもしれませんが、しかし日本社会にとって本質的に重要なある現象も、広く観察されました。それが、「自粛」ムードの蔓延です。地震が起きてからの数日間は、全国民がその被害に呆然とし、また原子力発電所の危機的状況に不安を募らせていたのだから、そういう時にレジャーや外食に出かけようという気にならないのは、人間として自然なことです。しかし、この「自粛」という現象が特異なのは、他人に対しても「不謹慎」という言葉によって行動の抑制を行おうとするところです。

 寿司屋に行ったとブログに書いたり、テレビ局がアニメを放送すると「不謹慎だ」と抗議を受けたり、公園での宴会を控えるよう当局が呼びかけたり、「なぜそこまで?」というぐらい他人に同調圧力をかける事例が相次いでいます。そして、その圧力に抗して従わなかった人間を、まるで何か重大な禁忌を犯した罪人であるかのように非難するのも、この自粛ムードの特異性です。「不謹慎ディナー」を掲げて自粛強制の風潮に敢然と立ち向かう佐々木俊尚氏のような人物は、これにより多くの敵を作っている(私はもちろん応援するけど)。

 もっとも、この現象に限っては、実は非常時というのはあまり関係ないかもしれません。普段から、私たち日本人は「空気」を読むということを大事にします。その空気は、「かくあるべし」と規範を文章で明示するようなことはしないけど、暗に求められる規範を破ると、よくて村八分、悪いと袋叩きにされるという点では、今回の「自粛」と同じです。この掴みどころのない怪物を分析しようと試みた力作が、本書『空気の研究』です。著者はこの「空気」こそが事実上の日本社会の支配者であるとし、「『空気』とはまことに大きな絶対権をもった妖怪である」(p.19)と断言しました。本書では、旧日本軍の意思決定プロセスや公害問題などの事例を引きながら空気の諸相が論じられます。

 まず、何と言っても空気の恐ろしい点は、何も考えずこれに従って行動していると、とんでもない結果を引き起こしてしまうことです。著者は、かつて太平洋戦争に日本が向かった際にも空気が決定的な役割を果たしたことを鮮やかに示しました。今回の自粛現象も、長引けば長引くほど経済活動を縮小させ、ただでさえ打撃を受けた東北地方の復興を遅らせることになる。もともと、自粛というのは被災地の人々の心を慮る善意から出てきたはずが、完全に逆の結果を招来してしまうのです。米メディアの New York Times も、日本人の矛盾した行動に呆れて「東京都民にとっての自粛は被災地の人々との連帯を示し、自粛をする側を何か良いことをしているという気分にさせる安易な方法だ。しかし、当人たちは実際にどんな効果をもたらすかはあまり考えていないようだ」という批判記事を掲載しています。

 二番目の問題は、空気に対抗する術が簡単に見つからないことです。科学や論理といった正統的な説得手段では、一切太刀打ちできない。科学者や知識人は、空気など存在しない、そんな圧力に屈するのは科学的思考が出来ない馬鹿だけだと切り捨てますが、それは問題を放棄しただけで、解決になっていない。だって実際、空気は存在しているし、強制力を発揮しているのだから。科学は、特定の手段で検出できる物質については分析の対象にできますが、どれだけ大気中を調べても「空気」を構成している成分は出てきません。だから科学は空気に対して無力です。それどころか最近では、空気の敵であるはずの科学者すらこれに屈服する有様です。残念ながら科学は空気に敵しえない。

 第三に、空気の求める規範がはっきりしません。法のような明確な基準によって決められておらず、各人が暗黙にこれを「読んで」行動するしかない。例えば、被災者たちの苦しみを慮って外食やレジャーを控えるとして、いつまで続ければいいのでしょう。多分、東北の復興は数年単位のスパンでかかる。とすると、私たちは数年間、贅沢を控えるべきなのでしょうか。空気を読む習慣のない外国人は「いつまで自粛を続ければよいか、日本政府がガイドラインを出すべき」と言うのですが、空気とはそういう風に明文化できるものじゃない。

 また、この世界では常にどこかで、大地震やハリケーンや紛争や飢饉といった悲惨な事件が起きています。私たちはどこまでの範囲を気にかけるべきなのでしょう。東北には連帯感を示す必要があるが、ハリケーン・カトリーナの直撃を受けたニューオリーズンや、同じく大地震に見舞われたハイチには同情を寄せる必要はないというのでしょうか。ハイチの死者は 31 万人と、今回の震災の比ではないのに、自粛派の人々はあの時も同じように自粛を呼びかけただろうか? こうした問題に整合的に答えることは絶望的です。

 そして最後の問題が、空気が結果責任を免罪することです。かつて第二次大戦末期、戦艦大和にほとんど成功の公算のない出撃命令を出した指揮官たちは、戦後その理由を問われて「当時の空気ではそうせざるを得なかった」と語りました。空気に従って行われた行為については、責任を取らなくてよいのです。今回も、自粛によって経済が落ち込んだとしても、やはり「あの状況を考えれば、ああせざるを得なかった」という言い訳が使われるでしょう。この理由は、空気が基本的に人々の善意から生まれるからです。著者は、感情移入こそが空気を生み出す最初の契機だと言っていますが、この洞察はおそらく正しい。感情移入というのは、相手も自分と同じように考え感じる存在だと仮定しなければ出来ません。本当は他人の心など知ることはできないのですが、その不可知論を擬似的に乗り越えたときに、空気は生まれる。

 この妖怪と戦うことは、容易なことではありません。戦う者は、異端として糾弾される覚悟を決めなければならない。著者も、これという対抗策を提示できているわけではないのですが、一つ面白いことを言っています。それは「民主主義は空気と戦うために発明された装置だ」という仮説です。当たり前の話ですが、多数決というのは意見が割れることを前提にした制度です。最初から全員が一致している、あるいは最終的にそうなることが期待できる場合は、多数決は不要です。対立項を認めることは、そのまま空気の同調圧力を減じることに繋がる。宗教学者の島田裕己氏は『人はひとりで死ぬ』で、日本の村社会の原理は全員一致であり、多数決という原理は知られていなかったのではないか、と述べています。日本社会は、昔から空気の発生しやすい条件を持っていたし、一応は民主国家となった現在でも、根っこのところでは変わっていないのです。

 とすれば、日本人は、空気という厄介な怪物と当分の間付き合っていかなければなりません。この最大の敵の特徴を知るためにも、数十年前に書かれた本書は、今こそ読み返す価値があります。