人はみな、ナチュラルボーン・キラー

 New York Times の記事より。("When the Good Do Bad")

 今月 11 日、アフガニスタンで民間人 16 人を米兵が銃を乱射して殺害した事件は、世界中に衝撃を与えました。単に痛ましい事件というにとどまらず、タリバンが米国との和平交渉を打ち切ると宣言するほか、カルザイ大統領も米軍を追い出しにかかるなど、早くも政治的影響まで与えています。現在真っ最中の米国大統領選挙への影響も取りざたされています。

 このような無差別テロや大量殺人が起きると、人々は驚き、そして口々にこう問います。「一体何が彼/彼女を殺人に駆り立てたのだろうか?」と。「以前は、そんなことをするような人じゃなかったのに」。

 日本でも、2008 年に秋葉原通り魔事件(7 人が死亡)が起きたときは、犯人である加藤智大の「動機」がマスメディアによって様々に推測されました。いわく、派遣社員としての不安定な雇用形態のせいだ。いわく、職場でのいじめがあったからだ。いわく、母親の育て方が悪かったせいだ。中には、彼女がいなかったからだ、なんていう「非リア」説まで登場するほどでした。

 ディヴィッド・ブルックスの見方は、これとは全く異なります。人はなぜ人を殺すのか? それは、人間が生まれつきの殺人者だからだ

殺人衝動が起こるのは、ビデオゲームのやりすぎが原因ではない。人間が殺人衝動を持っているのは、私たちが生き残りと繁栄をかけて、他者を殺してきた生物の子孫だからだ。私たちはみな、ナチュラルボーン・キラーであり、それゆえ真の問題は、「何が人間を殺人に駆り立てるのか」ではない。「何が人間を殺人から押しとどめているか」である。

 この人間観はあまりに悲観的すぎる、と思うでしょう。特に性善説と童心主義の強い日本では、こうした性悪説は嫌われる傾向がある。しかし、最近の多くの研究には、この見方を支持するものが多い。学生への聞き取り調査によれば、男性の 9 割と女性の 8 割が「誰かを殺したいと思ったことがある」と答えているし、最近の考古学は、旧石器時代には死者の多くが殺人によって殺されているという事実を明らかにしている。昔の人類は、現代以上に殺し合いばかりしていた。人類は、長い時間をかけて徐々にその殺人衝動を抑える方法を学び、平和的になっていったのです。

 「それゆえ」とブルックスはいいます。「私たちは、何が人を殺人から遠ざけるのかを知らなければならない」。心理学の研究によれば、殺人者となる人間は、しばしば共感と抑制を弱める環境で生活しているし、シリアル・キラーにはプライドが高いにもかかわらず、世間からは正当な評価を受けられない人間が多い(そして、世間を「見返す」ために殺人へ走る)。米国という国は、不幸なことにこうした殺人事件のサンプルが豊富です。それゆえ、実証的な犯罪学には、宝の山なのだ、という皮肉な見方もできる。

 ともあれ、現実を直視して、人間性への深い洞察をもとに解を模索するブルックスの態度には、米国のリベラルの強さを見る思いです。日本で同様の事件が起きると、まず政治家が「遺憾の意」を表明し、次にマスコミが犯人の過去を暴き立て、犯人がいかに不幸な生い立ちを持っていたかを「発見」し、我々凡人には覗くことすらできない「心の闇」が原因だったのだと「結論」を出します。最後に 2ch で犯人が英雄扱いされて世間がしらけて忘れ去る。

 でも、事実はそうではない。私たちは、本当なら二十歳ぐらいまでに一度くらい、アフガンの米兵と同じように、銃を乱射したりナイフを振り回して人を殺していたはずだったのです。ちょうど誰もが、一度ぐらいタバコ吸ったり酒を飲んだり万引きしたりといった軽犯罪を犯すように。そうなっていないのは、人類の発明した数々の装置 ―― 法、教育、共同体、そして強力すぎる核兵器 ―― によって、辛うじて人を殺さずに済んだだけだったのです。21 世紀の社会科学は、私たちにそのような悲観的な人間理解から出発せよと教えている。

原罪の概念は、キリスト教神学において唯一実証可能な教義である。