オスカー・ワイルドと過剰の経済学

 今日、久々にオーウェル「オスカー・ワイルド「社会主義下における人間の魂」の書評」を読み返して注を付けたりしていたんですが、そこで思ったのです。

 いや、オーウェルはいつも通り冷静で、悲観的だけど絶望はしない、大人な文章なんですが、批評の対象になってるワイルドの方が気になった。デカイ人物だな、と改めて感じたのです。そして「やはりアナーキストの考えるユートピアはこの100年間あまり本質的に変わってないな」とも。オーウェルが紹介するワイルドのユートピアはこうです。

 ≪苦痛は重要でなくなる。実際、人類史上初めて、人間は苦しみではなく喜びを通して自らの個性を実現することが可能になる。犯罪に走る経済的理由がなくなるので、犯罪もなくなる。国家は統治することをやめ、生活必需品の分配機関としてのみ残る。不快な労働は全て機械に任せ、人はみな自分の仕事と生活スタイルを選択する完全な自由を手に入れる。結果として、世界の住人は、自らにとって最高の生き方を完成させようと努力する芸術家たちが占めるようになるだろう。≫

 昨日取り上げた梅田・茂木両氏の主張だと言われても、違和感ないでしょう? 誰もが自己実現できる万人芸術家社会。埴谷雄高も納得です。

 そして何より、「資源は豊富だ」という明るい仮定にたって経済を考える楽観論。梅田氏が紹介していたクリス・アンダーソン「過剰の経済学」は、ワイルドたち100年前のアナーキスト的な社会主義者が考えていた経済観の全面的な復活です。

 この楽観論は、確かにコンピュータやWebの世界ではけっこう実現されるかもしれない。でも、うーん。現実社会の方はどうなっていくんだろう。うまくイメージできないよー。

 ともあれ、ここはひとつ、ワイルドも訳してみようかと思いました。