事実と価値

 これはちょっと・・・笑ってすませられない。
 Co2排出量が増えたとしても必ず温暖化が進むかどうかは疑問があることや、環境問題をこの世の終わりみたいにヒステリックに煽るのはよくない、というのは、その通りです。そんな悲観しなくても打つ手はあるし、合理的に取り組めば、解決できない問題じゃない、という共通認識をもってもらうのは、大事なことです。

 でもここまで論拠のない放言をされるとちょっと背筋が寒くなる。ロンボルクの本を10ページ飛ばしに斜め読みでもしたんだろうか? それならまだ救いがあるけど、多分それもないな。

 一歩引いてみれば、非専門家が畑違いの分野に首突っ込んで無責任な感想文書いただけだし、数年前の内田さんならそれで済んでいたでしょう(もしかしたら、本人も昔の感覚で「内輪」に向かって冗談飛ばしているだけなのかもしれない)。

 けれどいまは、もう状況が違います。最近は政治問題や教育問題についても、ゆっくり考える時間がなくて筆の荒れる傾向がうかがえますが、そういう分野では、まだ知識が豊富なのと正しさの検証が難しいのとで、あまり気にならない。ところが環境問題みたいに定量的な評価が必須の分野は、怪しげな印象論と巧みな話術が武器の内田さんにとっては、間違いなく大苦手科目です。

 環境問題についてまともな対策を考えるには、どうしたって内田さんの嫌いな定量的・合理的・効率主義的な思考に頼るしかない。そういう無批判な科学信仰が今日の惨状を招いたのだ、と言われればそのとおり。でも仕方ない、私たちは科学のほかに信頼できる道具を持ってないんですから。「身体知」は内田さんが好んで口にする言葉で、確かに頭脳中心主義に凝り固まった私たちの視点をずらす良い効果も持っているけど、残念ながら環境問題について、体は何も教えてくれない(・・・でもないか。内田さんはきっと体から「夏がいくら暑いっていっても、自分は涼しいところを探せばしのげる」というメッセージを受け取ったのでしょう)。科学を討つには、どうしたって科学をもってするしかないのです。

 次の日のブログには、もっと恐ろしいことが書かれています。ここで内田さんが取り上げているのは、昔から問題になってきた事実(正しいこと)と価値(いいこと)の二つの世界の対立です。内田さんはここで、事実よりも価値の側につこうとしています。それ自体は、別に悪いことではありません。「正しいけどよくないこと」より「正しくないけどよいこと」を言うのは言論の自由だし、誰だって普段からやっています。でも、それをやるなら一つ、条件を呑まないといけない。学者の看板を降ろすこと。なぜなら、世の中の多くの職業の中で、「研究者」だけが、「よいこと」よりも「正しいこと」の側につく義務を負っているからです(その代わり、世間的に見たらゴミのような価値しかないことでも研究する権利を得ている)。かねてからご自身も「自分は何の専門家なのか分からない」とぼやいていたのでいい機会でしょう。価値の側につきたいと思ったなら「評論家」や「エッセイスト」を名乗ればいいのです。評論では、学術論文とは反対に、いかに華麗に論理を飛躍させるかが生命線。内田さんならいいセン行くでしょう。

 もっとも、内田さんが事実よりも価値に重きをおきたがる気持ちは、わからないでもありません。小谷野敦が『評論家入門』で「閃きの評論、地を這う論文」とうまく表現したように、正しさを主張しようとする実証的な手続きは、とっても面倒でつまらないものです。内田さんのように豊富な閃きを持つ人にとっては、地に縛り付けられるごとく不快でしょう。直観の導くまま筆を躍らせて、自分でもどこへ行き着くのか分からないまま一気に書き上げる方が、間違いなくスリリングだし、読者も喜んでくれる。内田さんのエッセイの読者は、きっと内田さんの学術論文は読みたがらない。

 あるいは、所詮「本当に正しいこと」などには到達できないのだ、と反論されるかもしれません。そうだろう、と私も思います。歴史学者は、自分が明らかにした「事実」が、将来新たな史料の発掘によって覆される可能性を覚悟せざるをえない。「事実」はあくまで「暫定事実」に過ぎない。そのとおりです。それでも、その言葉はやはり研究者が口にすることは許されない。「本当の正しさ」というのが、決して到達できない無限遠点のようなものだとしても、「事実は必ずある。そして頑張ればそこに到達できる」という建前を掲げないといけない。それは、研究者が自分を律する最後の倫理だからです。「世界によいことを積み増す」のは、そりゃあいいことです。でも、「世界に正しいことを積み増す」のだって、それに劣らず重要なのです(というか、事実の蓄積がなくては良し悪しの価値判断がつけられない)。

 内田さんの好きな言葉を使えば、「遂行的言明」というやつです。「私は正しい」というのは、往々にして「事実認知的言明」ではありません。それでも、研究者がその言葉を口にする限り、その正しさを挙証する義務が発生する。その意味で有効な言明です。数年前、「本当の正しさなどない。面白いこと言ったもん勝ちよ」と「本当のこと」を看破してしまった哲学がどんな末路を辿ったか、知らないはずがない。嘘を嘘と知りながら、システムを維持するためにその嘘を利用する人物を、内田さんは大人と呼びました(王様が裸でも、大人が「立派な服ですねえ」と嘘をつくのはそのためでしょう?)。私には、まさに本人が定義した語の意味において、いまの内田さんは大人の階段をずり落ちているように見えます。

 師匠、けっこう尊敬していたんですよ。
 でも何だか最近、お別れが近づいている気がします。