仕掛けられた罠:若桑みどり『お姫様とジェンダー』

 ずっとたなざらしにしていた若桑みどり『お姫様とジェンダー』を読了。私は、美術史家としての若桑みどりは大好きでファンなのですが、フェミニストとしての発言があまり好きではなく、この人のフェミニズム関係の著作は(『戦争がつくる女性像』のような歴史的調査を除けば)ずっと敬遠してきました。でも、もう亡くなってしまったし、直接声を聞く機会も今後ないのだなと思って、連休を利用して著作を読み直してみました。結論から言うと、本書も想像していたよりずっと冷静な啓蒙書で、優れた本でした。もっと前に読んでおけばよかった(最近歳のせいかそう思うことが多い。時間を無駄にしたと思うよりはいいのだろうけど)。

 本書は、女子学生にジェンダー教育をするときの教師向けの指導書という体裁をとっていますが、素直に啓蒙書としても面白く読めます。『シンデレラ』、『白雪姫』などメジャーな女の子向けアニメを見たときの学生のレポートが抜粋されているのは、プロの研究者でない普通の女性たちがどういう風にメディアによるジェンダーの刷り込みを自覚しているか(あるいは自覚していないか)が分かって興味深いものです。このジャンルには斉藤美奈子『紅一点論』という先行する傑作がありますが、斉藤の頭の回転の速い批評とはまた違う、素朴な観点からの批評に気づかされることも多くて楽しい。特に、『シンデレラ』において、王子がシンデレラの顔も性格も知らないままガラスの靴を頼りに彼女を探し出すエピソードから「王子が愛したのは小さい足だった」とズバリ指摘したレポートは鋭い。著者もこれには感心して「深い印象を与えた」と記しています。「人間としての真摯さや能力ではなく、肉体の特徴によって男性に愛される。それが女性の幸福であるという社会の通念を教えるこのシンデレラの「靴と足」の話に対して、この文章は冷徹に「王子が愛したのはひとりの人間ではない。彼の好みの肉体である」と言い切っている。……「王子様はシンデレラというひとは愛していたのではありません」。そのことばには、男性が、ひとりの人間ではなく、性的にみて好もしい対象として女性を見ていることへの苦々しい批判が示されている。」(p.128)

 日本では一般に、女性は、人生の比較的早い段階で、自分たちに求められているのが身体的な美しさのみであり、知性や体力や行動力といった多様な人間的能力や徳性が求められていないことに気づきます。大人は言葉ではそう言わないのだけど、暗黙のメッセージとして子供にそれを刷り込むからです。「女の子は馬鹿でかわいいのが一番幸せになれる」と。そのように気づいた女性は、自分の価値を高める手段として化粧とダイエットと整形のみに的を絞ることになります。

 著者をはじめとするフェミニストたちは、これが女性を男性に肉体的・性的に従属させるために仕掛けられた罠であることを知っているので、女性が人生の初期において選択肢を狭くすることに、うるさいぐらい警鐘を鳴らします(あまりうるさすぎて当の女性側からも敬遠されてしまうぐらいです)。若さと美貌によって男の歓心を買える間はいいだろう。男も喜んで女を庇護し、面倒を見てくれる。しかし人間は誰も必ず老い、容色も衰える。いずれ男が賞味期限の切れた「ババア」に愛想を尽かし、単なる家事労働および育児機能を持った奴隷としかみなさなくなるのは必然の理である。そのとき後悔しても、もう手遅れなのだ。何十年も家の中に閉じこもり、技能も職業経験も人脈もない女性に自活の道は残されていない。待ち受けるのは純粋な行き詰まり(dead end)、人生の墓場だ……。

 結果、良心的なフェミニストが若い女性たちに行う人生指南の要点は、「年をとっても食べていけるような技能または仕事を持ちなさい」ということに帰着します。平たく言うと、男に頼りきる人生は長い目で見て、リスクが高すぎるから、男に頼らなくても自立自活できるようにしなさい、ということです。著者の主張もそうだし、斉藤美奈子(『モダンガール論』)しかり、小倉千加子『結婚の条件』)しかり。また毛色の変わったところでは、おそらく自分をフェミニストとは思っていないけど、奇しくもその生き様が最も戦闘的なフェミニズムを体現している西原理恵子もまた、近著で、男にぶら下がって生きるのはリスキーだと警告しています。

うちの娘も、まだ小学生なのに『マリー・アントワネット』の映画を観て「あんなドレスが着たい」ってうっとりしてる。やっぱりね、そういうのを見てると、つくづく思うよ。女の子のお姫様願望っていうのは、生まれつきDNAに刻みつけられてるんじゃないかしら?

だけど、もし女の子たちが……ひそかに「年収一千万以上の男をつかまえること」をもくろんでいるとしたら、悪いことは言わないから、そんなもくろみは、さっさと取り下げたほうがいい。

だってリストラや倒産、失業みたいなことがこれだけ一般化している今の時代に「人のカネをあてにして生きる」ことほど、リスキーなことはないんだから。
『この世でいちばん大事な「カネ」の話』(p.194))

 この西原の言葉には、実はジェンダー(彼女の言葉だと「お姫様願望」)は社会的刷り込みによるものではなく、生物的に最初から存在する特性ではないか、つまりジェンダーは本当はセックス(生物的性差)ではないか、という無視できない問いを含んでいて、もし「お姫様願望」がセックスなら ―― つまり罠を仕掛けたのが男性ではなく自然だったなら ―― 現代ジェンダー論は根底から覆る可能性があるのですが、それはとりあえず今は本題ではありません。

 一方で、私がフェミニストの本を読んでいていつも感じる違和感を、本書においても感じたので、それについても書いておきましょう。それは、著者が望ましいと思う社会が実際のところどんなものか分からない、ということに尽きます。本書の第一章では、女性が社会へ進出すれば税収が増えるし、税収が増えれば福祉も充実して出生率もあがり雇用も拡大する、ということを言っています。これは全く論理的で、実際、女性の社会進出というのは、男女平等というイデオロギー的な要請よりも先に、経済対策として必要です。エスピン・アンデルセン『ポスト工業経済の社会的基礎』で言ったように、福祉のためには財源がいる。財源には税金がいる。そして税金を得るためには、労働者を増やすか、労働者一人当たりの所得を増やす必要があります(税率を上げるという必殺技もあるけど、不人気なので最後の手段です)。それゆえ、今現在賃労働をしていない女性や老人を働かせることは、直接に福祉の充実と雇用の安定につながる有力な手段です。

 でも私が分からないのはそこではありません。著者は、そういう男女が労働市場や消費市場において対等のプレイヤーとして参加する社会においてもなお、男女間は良好でありうると考えているようだけど、その結論へ到達する理路は明晰でない。むしろ、現在既にそうなりつつあるように、男女の関係は、与党と野党、企業と労組みたいな、相手が隙を見せればいつでも寝首をかく準備のある「ライバル」の関係になるのではないか。というのも、男女平等の進んだ社会において、男性と女性の関係は、ある時は結婚生活の契約を結ぶパートナーであり、またある時は子供を育てるという一大プロジェクトを推進するチームメンバーであり、さらに別の時には労働市場におけるライバルでもありうるからです。こうした複層的な関係への移行は、多くの男性にとって既得権の喪失に見えるので、「内心では、なんだって女が威張る時代になったんだ、女なんてバカでかわいければいいのだと思っている男性が多い」(p.28)。一方、女性にとって男性は、労働者にとっての資本家と同じ「倒すべき敵」であり、いかにして男性から財貨・権力・威信を奪うかを考えねばなりません。この両陣営の間には、妥協や均衡は存在するだろうけど、著者の期待するような全人的な理解と友好関係が成立するかどうか、私には分からない。男と女の間に成立する関係は、かつてアメリカと旧ソ連の間に成立していた冷戦と同程度のものであってくれさえすれば御の字とするべきだ、と考えてしまうのは、悲観的すぎるでしょうか。あまり多くを望むと、熱い戦争が勃発しそうな気がする。上野千鶴子のようにそれを望む祭り好きも、中にはいるのだろうけど・・・。