論理的な議論のやり方 第2回:事実と価値

 さて今週もやってまいりました。「論理的な議論のやり方 第2回」のお時間です。前回は、論証の妥当性と健全性という概念について勉強しました。幾つかの前提から結論を導くというのは、論証の基本なので、これはもう絶対に身につけておくべきマナーでしたが、今回から2回ほど使って、巷の議論でよく見かける、しかし論理的には NG となる論証のタイプというものを取り上げて、どこがおかしいのか検討してみましょう。今回は「事実と価値」の2分法、次回は「一貫性とダブルスタンダード」というテーマでお送りしたいと思います。

 さて、それでは早速はじめましょう。今回取り上げるのは、事実から価値を導くという、見ようによってはかなり軽率な間違いについてです。しかし軽率というなら、私たち人間は例外なく軽率な生き物であるゆえ、直観だけに従っているとこの間違いに気づかないまま何となく説得されてしまうことになりかねません。

 ところで事実というのはまあ分かるとして、価値とは何でしょう。これは今の文脈では、評価とか当為と呼ばれているもののを指します。つまり、「〜するべきだ」とか反対に「〜するべきでない」という言い方で表される価値判断のことです。一般的な言葉でいうと、倫理とか道徳に基づく判断のことだ、と考えてもらってもかまいません。

 論理学、倫理学に限らず、科学全般において、事実から価値を導くことはしてはならない、という約束が出来上がっています。哲学者ヒュームの名前をとってヒュームの法則と呼ばれています。論理学者の三浦俊彦氏の言葉を引いてみましょう。

 前提に評価を含まない文だけがあり、結論に評価を含む文がくるような、妥当な論証はあるだろうか?
 
 これに対する答えは、倫理学言語哲学の通説では、ノーである。評価を含まない文だけから [ミック注:要するに事実命題だけから] 評価を含む文を導き出すことはできないとされている。
『論理学入門』p.114)

 だから例えば、次のような「論証」は、論理的には認められません。

最近は不況のせいで地方の人々は仕事がなくて困っている。ゆえに、公共事業をジャンジャンやって仕事を作るべきだ。

 この「論証」の前件「最近は不況のせいで地方の人々は仕事がなくて困っている」は、評価の含まれていない真な命題です(状況認識について異論ある人もいるかもしれないけど、とりあえず事実だとしといてください)。一方、後件(結論)は、価値判断が入り込んでいます。従って、これは妥当な論証になっていません。感情的にはこういうこと言いたくなるのは分からんでもないですが、こういう粗雑な「論証」をやる人を信用してはダメです。

 これは素人だけが犯す間違いではなく、ちゃんとした論理のトレーニングを積んだはずの科学者の中にもこの手のいい加減なことを言う人がいますが、科学と政治の区別がついていないとしか言いようがない。科学にできるのは、あくまでファクト・ファインディング(事実の発見)のみであって、その事実から価値判断を導くことはご法度です。事実と価値の境界には、超えられない壁が立ち塞がっている。

 では何で事実から価値を導いてはいけないかというと、この二つの領域の跳躍を認めると、何でも言えちゃうからです。例えばこんなの。

聖書には神が7日間で人間を作ったと書いてある。ゆえに実際にもそうであったと信じるべし。

 これも前件は事実です。聖書には確かにそう書いてある。でもだからって何で信じないといけないのか。これが「論証」として認められるなら、同様に「世界には聖書に書いてあることを信じない人がいる。ゆえに聖書に書いてあることは信じるべきでない」という相反する結論を持つ「論証」も可能になってしまう。

 あるいは小谷野敦氏が挙げているこんな鮮やかな例はどうでしょう。

哺乳類では例外なく雌が子育てをする。ゆえに人間の場合も子育ては女がするべきだ。

 フェミニズムな人は、前件のような事実を前にすると都合が悪いと思って当惑するというのだけど、ホンマかいなと思ってしまう。事実から価値は導けないという原則に従えば、「へえ人間以外の哺乳類ってそうなんですねえ。でもだからって人間もそうしなければならない、という根拠にはなりませんけどね」と言っておけばすむ話なのに。

 小谷野氏はマルクス主義も同じように、経済という事実の問題を倫理問題にすりかえるという、この同じトリックを使ってきた、と批判している。その通りでしょう。フェミニズムマルクス主義はその点で似ている。

 また、他の例としては、心理学者のアーサー・ジャンセンハンス・アイゼンクが1969年に提起した「黒人が白人より知能が低いことの原因は遺伝にある」という仮説を提起したときにおきた大騒動があります。二人は、事実と価値を混同した連中によって、猛烈なバッシングを受けました。人種差別を擁護しているとしてヒトラーになぞらえられさえした。でもこんな批判はナンセンスといわざるをえない。仮に人種間の知能差が遺伝的要因により決定されていることが事実だとしても、それが人種差別という価値を基礎づけることはありえないのです。もし科学的研究に政治的介入を許せば、研究者は自由にテーマを選ぶことができなくなってしまう。そんな馬鹿な話はありません。

 既に19世紀に、トマス・ジェファーソンは、「黒人の能力が白人より低かったとしても、それが黒人の権利の基準を決める根拠にはならない」として黒人差別に疑義を表明していました。ジェファーソンは正しい。結論だけでなく、判断のプロセスにおいても正しい。

 そんな訳で、事実と価値の峻別というのは、今のところ、守らねばならない原則と考えられます。「今のところ」と限定をつけたのは、本当にこの二つの領域を架橋することが不可能であるとは示されていないからです。三浦氏が「通説では、ノーである」という限定つきの書き方をしているのもそのためです。

 ここから先は純粋に余談なのですが、実は、事実と価値の間の跳躍をなしとげるという難事に挑んでいる研究者もいます。古くはジョン・サールの1964年の論文「『である』から『べし』を導く」("How to Derive 'Ought' from 'Is'")、最近ではヒラリー・パトナム『事実/価値二分法の崩壊』(2006)など。彼らの試みはチャレンジングで面白いのですが、成功しているとはいいがたいし、また可能だとしても範囲は限定的でしょうから、やはりヒュームの法則は今後も大多数の場合において妥当すると考えてよいでしょう。(サールもパトナムも分析哲学の泰斗であり、かつ政治活動にも熱心という共通点がある。きっと政治的言明を厳密に基礎づけたいという動機を持っているのでしょう。)