事実と価値:実践編

 お騒がせ市長の竹原信一阿久根市長が、ブログで障害者の人権を軽んじているかのような発言をした、というニュースが報じられています。発端となったブログのエントリは11月8日のもの。また批判に対する竹原氏のコメントはこちら

 竹原氏と彼を批判する障害者団体の発言には、事実と価値、それぞれの領域に属する言明が混在していて分かりにくくなっているので、どちらの言い分にどれだけの理があるかを判断するために、整理から始めましょう。

 竹原氏が事実と認識して主張することは、医師不足の問題と障害者医療という二つに分類できます。

 まず、医師不足問題についての彼の主な事実認識は以下の通り。

 P1:医師不足が全国的な問題になっている。
 P2:この体質を後押ししてきたのが医師会だった。
 P3:医者を大量生産すれば医師不足の問題は解決する。

 この三つの命題のうち、P1 は多くの人が同意するでしょう。P2 はやや実証性を欠くものの、あまり全体にとって重要ではありません。焦点は、P3 が医師不足問題の対策として有効かどうか、というところです。

 これも実証するにはやってみないとわからないけど、論理的に考えれば有効だと言えます。足りないのなら増やす以外に解決の道はないから。ここで竹原氏が鋭いのは、ただ増やすのではなく、「全ての医者に最高度の技術を求める必要はない」という提案をしているところです。事実、医師免許にもレベルを設けて、簡単なルーチン的治療だけに専念する「準医師」というクラスを作れば、国家試験のしきいが低くなって今より多くの準医師を送り出せます。これにより、優秀な医者を、本当に高度な技術を要求される治療だけに専念させられるようになり、リソースを効率的に配分できます。

 これは別に突飛なアイデアではありません。こういう階級制をとっている職種は多い。公務員ならキャリアとノンキャリア、教員なら教授と準教授、建築士にも1級と2級があります。でも医師はみんな一律で医師という一つの階級しかない。考えてみたら、こっちの方がなんで一律なのか不思議だと思いませんか? (余談ですが、同じように階級制を持たない職種としては、弁護士もあります)

 医師会および現職の医師たちは、この改革案に反対するでしょう。これまで自分たちが排他的に占有してきた仕事の一部を奪われるため、既得権喪失につながるからです。あとは、国民全体が医師不足によってこうむるデメリットと、医師が仕事を排他的に確保できることの便益のどちらを取るか、という価値の領域の問題になるので、判断は政治の場に移されます。私個人の見解としては、竹原氏に賛成します。

 さて、次に障害者に対する医療の問題です。この問題に対して、彼が事実と認識しているのは以下の一点です(これ以外にも「『生まれる事は喜びで、死は忌むべき事』というのは間違いだ」なども言っているけど、既に価値判断が入っているので事実認識とは呼べません)。

 P4:高度医療のおかげで昔なら生きることのできなかった障害者が生きられるようになった。

 これは事実です。従ってこれを言ったところで何も倫理的に責められるいわれはありません。竹原氏も事実と価値の区別、という二分法を理解していることが「高度医療が人々を生き残らせているのは事実です。それについて言ってはいけない、議論をさせないという話はよくありません」という発言から読み取れます。

 注意しなければならないことは、この事実から、障害者に対する医療をしなくてもよい、とか障害者に対する安楽死を認めるべきだ、という価値判断を導いてはならない、ということです。これは先週のエントリで述べたとおり、ヒュームの法則に反する禁止事項です。

 竹原氏の発言が怪しくなるのはこの点です。「お金の使い方が偏ってしまっていて、社会が全体を見ていません」という発言に見えるように、彼はおそらく障害者を大金を使って生かしておくような医療に疑問を感じていて、それを見直したいと思っている。そのために上のような事実を引っ張ってきたのだけど、でも事実を価値の論拠として使うのは間違いだという認識も持っているものだから、ぼかした言い方で逃げている。これは卑怯だ。価値の問題を論じたいなら、もっと堂々と自分の判断を語って、有権者にぶつければいい。

 それより、竹原氏の発言よりも気になったのが、障害者団体の発言の方です。日本知的障害者福祉協会の栗崎副会長は、「命の尊さを理解していない恐ろしい考えだ」と言ったという。もしこの「考え」の中に、P4 のような事実についての言明まで含まれているとしたら、価値によって事実を弾圧しようとすることにつながります。私はその方が恐ろしい。

 しかも、「生命の尊さ」という価値判断を持ち出して、生命倫理を基礎づけることはまず不可能です。この点を厳しく批判したのは、ピーター・シンガーです。

 人間生命の尊さの論拠として、何らかの宗教的なバックボーンを持ち出すのでなければ、なぜ人間の生命は尊く、他の生物の生命は尊くないか、という線引き問題に答えるか、「人間に限らず生命はすべて尊いので奪ってはならない」という普遍的な立場を支持するしかない(その主張をする人は、肉食をしてはならない)。

 またもう一つの困難として、人間生命は至上の価値を持つので何があっても奪ってはならないという判断を支持するならば、国家による死刑や正当防衛による殺人も否定しなければなりません。そのような絶対平和主義者以外が、軽々しく「人間の生命は尊い」などと言ってはならない。「生命は尊い」とか「生命は神聖だ」という言葉は、こういう厄介な問題を考えずに思考停止して済ますための印籠なのです。栗崎氏は自分の発言が導くこういう難題の存在を理解しているだろうか。

 生命倫理環境倫理などについて理性的な議論をしたいなら、せめて上のような基本的なことは知っておく必要があります。シンガーの『実践の倫理』は、この手のことに何か言いたいなら必読本です。高度な専門書ですが、安楽死、中絶、人種差別、動物の権利など具体的なテーマに即しているし、シンガーは論理的に考えれば必ず理解できるよう丁寧に書くので、予備知識なしでも読めます。