江戸時代のオリンパス

 この時期の定番ドラマのひとつに『忠臣蔵』があります。主君の名誉を守るため、政敵の家に押し入って敵討ちを果たして、最後は全員切腹するという、元禄赤穂事件を題材にした日本人なら誰でも知っている物語です。この特異な物語にひきつけられるのは日本人だけではないようで、海外でもたびたびドラマや舞台のモチーフに取り上げられています。現在、ハリウッドでもキアヌ・リーブス主演の映画『47RONIN』が製作中です(今年の冬に公開予定)。

 『忠臣蔵』の多くのバージョンでは、雪の夜の討ち入りがクライマックスで、本願を遂げた浪士たちが切腹にいたる過程はあまり深く掘り下げられず、視聴者もそこでは余韻を楽しむだけ、ということになっています。しかし、この物語の現代的な価値は、その「余韻」の部分にあるので、ここを省略してしまうのはもったいない。

 幕府の内部では、吉良上野介を討ち取った浪士たちの扱いはすぐには決まりませんでした。というより、揉めに揉めた、というのが実情でした。法的に見れば、徒党を組んでの討ち入りは死罪でファイナルアンサーなのですが、武士の徳目として忠義を称揚していた手前、幕府もそれを実践した浪士たちを断罪するのに躊躇いがありました(幕閣の中にも彼らに同情的な者がいた)。加えて、町人の間で浪士たちは一躍英雄となり、知識人の中にも彼らを賞賛する者が現れて、下手をすると幕府は江戸庶民全体を敵に回しかねない難しい立場に立たされたのです。

 こうした「庶民感情 VS 法理」という対立の図式は、現代でも頻繁に出現します。昨年、海上保安庁職員が機密映像を流出させた事件などは、記憶に新しいところです。こうした場合、特に支持基盤の弱い政権であるほどポピュリズムの誘惑に負け、法を曲げた対応をしがちです。今よりずっと封建的で堅固な政権基盤を持っていた江戸幕府にして、庶民感情を完全に無視した決定をごりおしするのは困難でした。

 しかし、私たちが結末を知っているように、幕府は、浪士たち全員に死罪を命じて、感情より法理を通します。この毅然とした判断に力があったのが、荻生徂徠による「法の支配は絶対である」という議論でした。忠義に従うという心がけは立派だが、それは所詮、私的感情であって、社会の統治原理に優先させられるものではない。もしそれを許せば、私的復讐心によって殺人を犯す者が陸続現れるだろう――。

 徂徠のこの近代を先取りした法理論は、もちろん庶民には不評でした。おかげで「徂徠豆腐」という彼を皮肉る落語の演目まで作られてしまう始末です(もっとも、徂徠に批判的なこの演目の中でさえ、彼の学者としての立派さは十分に表現されていて、庶民からよほどの尊敬を集める存在だったことが伺えます)。

 『忠臣蔵』は、個人に対する忠義を共同体の規範である法に優先させることを賛美しているとして、戦後しばらく占領軍によって発禁処分にされます。日本人の封建思想を矯正する必要を感じていた米軍としては、当然の措置です。しかし、日本人の中に根付く封建性は『忠臣蔵』を禁じたぐらいでなくなるものではありませんでした。『Economist』は、"Tribal Japan"という記事の中で、オリンパス不正経理問題は、会社や社会といった大きな共同体よりも、上司という個人により強い忠誠心(loyalty)を持ってしまう日本人の封建的な精神が問題の一部をなしている、と指摘しています。「部族主義(Tribalism)」などという言葉を使われると、「こいつら日本人を未開の土人だとでも思ってるんじゃないのか」と、私ですらちょっとムッとしてしまうのですが、しかし一面の真理をついているだけに否定もできない。

 現代に徂徠のような学者がほしい、というのは高望みだとは思うのですが、せめてドラマの中ではきっちり討ち入り後の幕府評定のプロセスも描いてほしいなあ、というのが私の希望です。徂徠役は、力のない役者にやらせると「冷たくて人情のないインテリ」というステレオタイプに落とし込まれてしまうので、人選には注意が必要ですが、私にも適任が思いつかない。誰かいい人がいたら教えてください。