怠け者でGO!:バートランド・ラッセル「怠惰への賛歌」

 久々に翻訳のストックから手ごろな長さのを一つ。題名からして反抗的なラッセル「怠惰への賛歌」。

 「労働は1日4時間でちょうどいい。それ以上働くと体によくないしバカになる」
 「勤勉の美徳は産業革命以前の遺物なので、現代でこれを信じている国はまだ先進国とは言えない」
 「あなたが懸命に働いて得をするのは地主だけだ」
 「勤勉に働かないと生活に困るというのは労働者を支配するために支配層がでっちあげたデマだ。戦時中はみんな軍事にかり出されたが、それでも生活に困らないという事実が図らずも明るみに出たわけですが何か?」
 「消費することで物が売れて経済が回る。消費は生産と同じぐらい大事なのだから、皆さんもっと消費しよう」

 まあ威勢のいい啖呵が並ぶこと。私が訳すとサラリーマンが酒場でくだ巻いてるような文章になるけど、でもこれは元々のテキストからしてラッセルが「態度の悪いオヤジ」全開で書いてるのでしょうがない。本当にノーベル文学賞受賞者か、と疑問がよぎるのはさておき、イギリス人はこういう冷たい毒を含んだ文章を書かせるとうまい。一見すると社会主義者っぽい発言に見えるけど、読んで分かるとおり、ラッセルは社会主義にはシンパシーを感じつつ、少し冷たい眼で見ている。1930年代といえば知識人はほとんどノーテンキな左翼かぶれだったなか、ラッセルはかなり早い段階からその理想主義にきな臭さを嗅ぎ取っています。

 そういえば、同じくイギリスでラッセルより1世紀前に活躍したモリスも「労働1日4時間」説を唱えていましたが、このような怠慢の効用を正しく評価する思想の伝統が脈々と受け継がれているという点で、イギリスという国は侮りがたい。だてにニートの本家本元ではありません。それ以外にも、増えた余暇で民衆が文化の担い手として復活してくれることを期待するなど、二人の主張には共通点が多い。

 かの国を筆頭に、欧州ではラッセルたちの薫陶がしっかり行き届いており、労働者はいかにして仕事をさぼるかを競い、バカンスは最低一ヶ月は取得することが当然の権利であるという「常識」が定着しています。これと比べれば、わが国がまだ文明国の玄関口にすら立っていないという彼の批判には、理ありとしないわけにはいきません。

 でも、ここで使われているロジック(簡単に言うと「衣食足りて礼節を知る」なんだけど・・・)が通用するには、少し前提条件が必要なので、そこについて思ったことを補足してみます。

 ラッセルは労働時間の短縮は主にバランスの問題、つまり富ならぬ時間の適正配分の問題だと言うのだけど、これは産業革命を潜りぬけて、必需品を十分に供給する力を得た先進国でしか通用しません。ラッセルもその点は自覚していて、一応断りはしている。

 多くの途上国では、20世紀に入ってからも、必需品(ほぼ食料と同義)の絶対的不足に喘いでいました。「世界全体にとっての問題は、現存する富をいかに配分するかではなく、いかに生産を増加させるか、ということである」というオーウェルがワイルドに投げた批判は(「オスカー・ワイルド「社会主義下における人間の魂」の書評」)、ラッセルにもそのまま当てはまる。「お前はイギリスのことしか頭にないのか。世界を見ろ世界を! 飢えた子供たちを前に仕事をサボろう? 何を気楽なことを」という苛立ちを持ったまじめな人も、社会主義華やかなりし1930年当時はけっこういたはず。

 でもその後、緑の革命などの技術革新を経て、世界全体で大幅な食糧増産はきっちり達成されました。オーウェル(1950年没)は、こういう科学技術の優れた成果を見ずに逝ってしまった。だから、ラッセルの議論はむしろ21世紀でこそ正しい歴史的文脈に置かれることになる。彼の幾つかのテキストがそうであるように、100年早い議論だったかもしれない。消費の持つ効用を賛美するという点でも、当時はかなり珍しかったのでしょう。

 全国のニートおよび仕事が嫌なボンクラの諸君。諸君たちの直感は間違っていない! 働かなくていいというのは社会が豊かであることの指標なのだ。人間性を根こそぎ奪うような非人道的な労働には全力でこれに抵抗せねばならない!
 しかしま、そうは言うものの、無から有が生まれるわけではないので、労働時間ゼロはさすがにきつい。社会を長期的に持続させるために、ここは先賢たちの薦めに従い、諸君も一日4時間労働はキープしていただきたい。(それにラッセルも、暇な時間をダラダラ過ごしていいとは言っていない。余暇の有効利用については結構うるさく注文を付けている。)

 21世紀の合言葉は「怠け者でGO!」(@バートランド・ラッセル)。