データベースは新時代の神たりうるか?:イアン・エアーズ『その数学

データベースは新時代の神たりうるか?:イアン・エアーズ『その数学が戦略を決める』

 私たちは、普段生活する中で多くの判断を繰り返しています。朝食のメニューから寝る前に読む本まで、私たちの生活は大小さまざまな判断の積み重ねでできあがっています。時としてその判断が間違っていて、古くなった牛乳にあたったりベッドの中で読む本が予想外に面白くて結局一睡もできなくて翌日フラフラになったりすることも、私たちはしょっちゅう経験しています。そういう幾多の判断において、私たちがあてにする材料は、大体の場合、直感と経験則です。昨日も飲んだから今日もこの牛乳は大丈夫だろう。何となくこの本が面白そうなオーラを放っているぞ・・・・・・。

 まあ、大概の判断は、間違えてもそれほど大きな損失に結びつくことはないかもしれません。でも、一方で、ビジネスや政治、そして医療の世界には極めて慎重で失敗の許されない判断を迫られる局面が多く存在します。自分の判断が、多くの社員の人生や患者の命を左右してしまう。そういうとき、自分ひとりの直感や経験則に頼ることは、大変心もとないものです。失敗したときの責任が大きすぎるし、また何が正解なのかも容易に分からない問題が多いからです。コンサルタントや占い師という職業が成り立つのも、そんな心の隙間を、私たちが否応なく抱えるからです(経営者がみんな自信満々で判断を下せるなら、こんな商売の需要はない)。

 でも専門家といえど、所詮は人間。間違うときゃ間違う。それに失敗したとき自分の代わりに責任をとってくれるわけではない。コンサルの逃げ足の速さは天下に響いています。もっと合理的で、リスクの少ない判断方法はないものだろうか――少数の専門家にしか扱えないような高度なものではなく、誰もが利用可能な方法が。本書は、それがあると言います。今はまだ万人の手に行き渡るというところまではいかないけど、いずれはそうなるだろう、と。

 その方法の名前は、絶対計算。別名をデータマイニング。技術的には統計解析を基礎に持ちますが、その大きな特徴は、扱うデータの規模にあります。テラバイト、さらにはペタバイトという天文学的な規模の大量データから、一般的な法則を導き出す。本書は、こうしたデータマイニングがアメリカで実際に応用されている多様な実例を――出会い系サイトのマッチングから教育、医療まで――極めて具体的で丁寧な説明によって描き出します。そこで紹介される技術の強力さは、まさにデータベースこそが新たな時代な神であることを立証しようという勢い(第6章の小見出しの一つは「あらゆるところにデータベースが」というもの。神は世界をあまねく嘉したもう、か)。著者は、この絶対計算が人々を幸福にする革命であることを確信しており、その有効性に反対する守旧派を時代遅れのラッダイトとして一蹴します。

 ・・・・・・全体としては、絶対計算とは無縁の人生を追求しようとしても、それは不可能であるしその人の利益にもならない。この強力な新技術を、産業革命に反して機械という機械をうちこわしたラッダイト運動のように排除するかわりに、知識あるこの革命への参加者になるほうがいい。数について無知なままに頭を砂につっこむかわりに、絶対計算の基礎ツールを頭に入れてみてはいかがだろう。(p.258)

 一つの対立軸を設定し、それへの賛成派と反対派で世の中を二分して「善と悪とどちらにつくか」と迫る恫喝に近い論法は、アメリカの知識人の習慣かもしれないけど、実際のところ、絶対計算は人々を幸せにする技術でありうるのでしょうか?

 多分そうなのだろう、と思います。重大な判断であればあるほど、合理的な根拠に基づいていけないはずがない。責任の所在も意思決定のプロセスも不明な密室会議や、声と態度のデカイ奴が勝つという身も蓋もない決定方法に比べれば、はるかにマシなはず。

 しかし、問題が生じないわけではありません。特に、計算の結果が私たちの直感に合わないとき、問題点が露になる。例えば著者は、絶対計算が人種差別や女性差別に有利に働きうる事例を挙げています。住宅ローンの審査を絶対計算で行う場合、あからさまに人種を変数に含むことはしなくても、「融資額の少なさやクレジット履歴の悪さ」といった「人種と強く相関した特徴」を代替の変数とすれば、価値中立的にヒスパニックや黒人を融資対象から外すことができる。これは、今の私たちの感覚から言えば、あってはならない結論のように感じられる。では計算の結果を無視したり、(現実にしばしば行われているように)思い通りの結果が得られるよう変数を作為的に操作するべきか?

 もちろん、するべきではない。科学的分析から一つの結果が得られたという事実は、変えたり無視したりできるものではありません。それは、丁半博打の出目が気に入らなくてイチャモンをつけるヤクザの所業に等しい。その時、変わるべきは私たちの側であって、結果の側ではないのです。

 さて、想像してみてください。あなたが銀行の融資審査担当だったとして、ある特定の人種に偏って常に審査不適格の結果が得られたとき。真剣に結婚を考えている女性との相性が「最悪」で「1年に以内に離婚する確率98%」という「分析結果」が得られたとき。企業の採用担当として、「女性はこの仕事に不適格」という「計算結果」が得られたとき。果たしてこうした「神託(Oracle)」に従うべきか?

 怖い問いです。出来ることなら考えたくない。でも、いつか私たちは必ずこの合理性と直感の対立という難題に直面する日を迎える。そのとき、私たちは一体どんな判断を下すべきなのか?

 絶対計算のデータベースには唯一、この問題に対する答えだけが含まれていない。