幸福を秤にかけよう:ハロルド・ウィンター『人でなしの経済理論』

 1978年、アメリカでフォード社のピントという車を運転していた 16 歳から 18 歳の 3 人の女の子が、他の車に追突されて死亡する事故がおきました。この事故を担当した検事は、前例のないことをやります。フォード社を無謀殺人罪で告訴したのです。一般にフォード・ピント事件として知られる事件の一つです(ピントは同じような事故を幾つか起こしている)。理由は、フォード社が構造上の欠陥があることを承知していながら、その改修を放置していた、というもの。しかもその際、同社はご丁寧に、改修にかかるコストと訴訟を起こされた場合の賠償金を比較して、賠償金を支払う方が安価であるという判断を下して、意図的に放置していました。

 このフォードの判断は、非人間的だという感情的な嫌悪感を抜きにすれば、首尾一貫した態度ではあります。会社の利益を最大化するという原則に従うなら、著者も言うとおり「かれらはまともなビジネス上の判断をした」と言える。しかし同時に「社会の観点からするとまともなビジネスの判断ではない」可能性も否定できません。

 こういう社会全体へ及ぼす影響の大きい行為や判断の正当性を判断するために経済学が導入するのが、社会的厚生(social walfare)という概念です。社会全体の富とか社会全体の便益の総和、という意味です。「富」というとお金に関わることだけを連想しがちですが、健康とか寿命とか失業率とか生活水準まで含めたりもします。著者も、「厚生」に何を含むかは、論じたい対象によってかなり恣意的だと言います。そしてついでに「社会」が指す範囲もかなりいい加減です。町なのか、会社なのか、国なのか、それとも地球全体なのか。それによっても全然結論が変わって来る。

 しかしまあ、恣意的とは言っても、それなりに多くの人が賛同してくれないと客観的基準として意味をなさないので、社会的厚生としては、企業活動とか政府財政のように純経済的な問題の場合は所得を、医療や公害の問題では人命や寿命など、計量可能な基準を使うことが多い(医療と戦争の現場でこの概念がうまくハマるのはそのためです。優秀な医者はしばしば冷酷な指揮官に似る)。心理的な幸福度は個人差が大きいし数値化するのが難しいので、まず使われることはありません。

 そうすると、人々にとって一番良い社会とか、それを実現するための選択を考えるとき、社会的厚生の観点からは二つのアプローチがありえます。最大化と平等化です。これは私の個人的な印象ですが、経済学者には、最大化を目指すのが望ましいと考える人が多い。この立場の元祖は、もちろん功利主義の祖ベンサム最大幸福原理です。先ほど例にあげたフォード社も、社会という言葉の範囲をフォード社に限定すれば、その行為は正当化されます。社会の範囲を地球全体としたときに、地球温暖化よりマラリアなど感染症対策に力を入れるべきだ、という主張を経済学者がするのも、その方が「地球全体で見て、救われる人命が多い」という損得勘定をするからです。損得勘定で倫理問題を割り切るこの思想は、いわば商人の思想です。

 社会的厚生とはこのように、社会問題の論点を整理するのに便利な概念ではあるのですが、でも、厚生の最大化だけを目的にしていると、ときに直観的に受け入れられない結論を導くこともあります。たとえば、富める 1% が100兆円を得て、貧しい 99% が 10 兆円を失う社会でも、社会全体の差し引きは 90 兆円の黒字なので、最大化論者にとっては問題のないバランスシートです。先進国が途上国をどれだけ搾取しようとも、「全体として」地球が豊かであれば OK というポジティブ・シンキングです。しかし問題は、最大化を平等化より優先すべき根拠がそれほど明確でないことです(有効なのはせいぜい、最大化を目指すことが最底辺の人々の厚生も増やすのだ、という論法ぐらいか)。

 そしてさらに、最大化主義には強力な批判が待ち構えています。イギリスの倫理学者ジョン・ハリスが提出した有名なサバイバル・ロッタリー(命のクジ)の議論です。

 いま、医療技術の進歩により、健常な人体一人分の臓器を移植して、二人の臓器疾患を抱える人間を救うことができるようになった、と仮定します。この移植によって救われた人は、その後、普通の健常者と全く変わらない生活を送ることができるようになる。そうすると、社会的厚生を最大化すること「だけ」を考えるなら、健常者の方々には定期的にクジを引いてもらって、当たった人を殺して病人二人に臓器提供をしてもらうことが望ましい。いや、そうするべきです。なぜなら、この選択の収支は 2 - 1 = +1 の黒字なのだから。社会全体の幸福のためには貴い犠牲が必要なときもある・・・・・・。

 いかがでしょう。皆さんは、この結論を受け入れられるでしょうか。少なくとも、最大化論者の皆さんには受け入れてもらわないと困る。クジなんか引かず、むしろ進んで献体してもらいたい。だって、技術的な困難を除けば、彼らにこの提案を否定する論理的な根拠はないんだもの(このクジは残念ながらパレート改善な政策ではないけど、それは本質的な欠陥ではない)。

この計画によって、今は失われている多くの人命が助かるチャンスが増えるだろう。実際、提供者の命が失われることを考慮に入れても、若死にする者の年間数は飛躍的に減少するかもしれない。そうなると、すべての人の老年まで生きるチャンスが増えることになる。
 
以上がこの計画の採用の成果だとすると――そういう結果になるのは確かだと思うのだが――この計画を簡単に却下することはできないだろう。(ジョン・ハリス「臓器移植の必要性」『バイオエシックスの基礎』)

 ハリスの議論が示すのは、社会的厚生の最大化原理を無制限に認めると、全体主義を認めるところまで行き着く、ということです。このロジックは、本質的には「大のために小を犠牲にする」という古くからあるもので、1930年代のドイツでは、社会全体の効用のためにはユダヤ人を犠牲にすることが望ましいという論理がまかりとおったし、もっと遡ると、アイルランドの作家スウィフトの『穏健なる提案』という全く穏健でない政策提言があります。このパンフレットの中で彼は、大飢饉のため崩壊の危機を迎えていた祖国アイルランドの窮状を救うべく、「1歳まで育った子供を食用に供すること」を求めました。その方が、社会全体で見れば多くの人命を救うことができるから、と。夏目漱石は、この『提案』を読んでスウィフトを狂人と評したそうですが、その評価は当たっていない。こんなことを考える人間は合理的すぎるのです。ちょうど、賠償金のが改修費より安いと判断したフォード社のように(余談ですが、おそらくハリスの議論はスウィフトを下敷きにしている。イギリス人のハリスは、当然スウィフトの『提案』を知っている)。

 このように、一見すると非の打ち所のないように見える功利主義は、個人の人権や自由意志を無視した全体主義を止めることができません。従って、このアイデアに対する批判は、権力の個人に対する侵害を許さない自由主義陣営からやってきます。具体的には、「本人の意志によらない献体自由権や財産権の侵害である」というもの。そして実は、個人にはいかなる権力も侵すことの出来ない私秘領域(delimiting spheres)があるのだ、ということを強力に擁護した思想家の一人が、ほかならぬベンサムでした。ベンサムというと、上のような血も涙もない冷徹な功利主義者の典型だとか、フーコーパノプティコン批判も手伝って近代的な抑圧装置を生み出した張本人みたいに思われてますが、その評価は単純すぎる。私はこの人はもっと高く評価されるべき人だと思います(民主主義も人種差別撤廃もフェミニズムも動物の権利擁護も、この人がいなければあと 100 年は遅れていた)。

 本書は、割と最大幸福原理に好意的で、その立場から自動車、タバコ、著作権保護、感染症予防などの社会問題を論じ、システムの不合理さを抉り出そうとします。それはそれで大変面白いし、啓発的です。好き嫌いはともかく、物事にはコストがかかるのであり、全体の損得を考慮して判断する、という習慣は、リソースが有限な世界に生きる社会人であれば、必ず身につけてほしいものでもあります。

 でも私はそれと同時に、上で書いたような功利主義の困難な点についても考えさせられる本でした。無邪気に最大化原理を支持することは、やはり現実的にできない。「解決策などない。あるのはトレードオフだけだ」と著者は言いますが、それにならって言うならば、功利主義もまた解決策などではなく、それもまたトレードオフにかけられるべき対象なのでしょう。損だと判断したら、ためらうことなく功利主義を捨てろ。それもまた、功利主義の教えです。