『Economist』:家庭に一丁

 先月末、アメリカのテネシー州でレストラン、バー、公園内に銃を持ち込むことを許可する法案が大差で可決されました。一度は州知事が拒否権を発動したものの、直後に議会であっさり引っ繰り返されて勝負あり。ついでに、裁判官が法廷に銃を持ち込む法案も一緒に可決され、同州では銃の携帯可能な地域が一気に広がったことになります。こんな法案を提出するのはもちろん共和党で、その支持母体である全米ライフル協会も法案通過に喜びのコメントを出しています(共和党は銃が大好き。一昨年は資金集めのためにマシンガンの試射会というクールなイベントをやっていた)。一方、地元の民主党員は、「絶対にバーでの銃撃事件が増加する」と苦りきっています。

 国民的企業だった GM が国有化されるこの未曾有の不況にもかかわらず、アメリカでの銃の売上はうなぎのぼりです。「こういう苦しいときこそ、みんな自分の身は自分で守ろうとして銃を欲するんだ」と銃のセールスマンは言う。テネシー州は、法案成立前でも 22 万人の住民が銃の所持許可を持っているという、銃で溢れかえった州ですが、この法案がさらに銃の増加に拍車をかけることは容易に想像がつきます。

 私たち日本人は、こういうアメリカ人の銃への愛着というか執着を見るたびに、「自衛のために銃はそんな効果的だろうか。全面禁止した方がよっぽど安全な社会が作れるのではないだろうか」という素朴な疑問を感じます。全面禁止してしまえば、年間 3 万人が銃が原因で死ぬようなこともあるまいに、なぜそんな簡単なことができないのか、と。

 これは、銃規制派の民主党も繰り返している批判なのですが、でも、実はこの批判は的を外している。アメリカ人が「自衛」と言うとき、それは別に、秋葉原でいきなり暴れ出す暴漢から身を守ろうとしているのではありません。いや、そういう目的もあるけど、そんな連中はまだかわいいものです。彼らが本当に戦わなければならない相手は、もっと強大で邪悪な存在です。それは、政府と外国の軍隊です。一昨日の朝の番組でコメンテーターをしていたデーブ・スペクターは、さすがにこの点をちゃんと認識していて、的確なコメントをしていました。

 共和党が銃を擁護するとき、必ず持ち出す議論が、銃の所持は憲法で認められた権利だ、というものです。実際、かの有名な憲法修正第二条では、確かに武装権を認めている。憲法にこんな記載がある国もすごいけど、この背景には、アメリカが独立戦争に勝つことで成立した国だ、という歴史的事情があります。戦争が始まったとき、アメリカにはまだ正規軍がありませんでした。ワシントンたちが緊急召集をかけたとき、銃を手に駆けつけたのは軍人ではなく、武装した市民 ―― 民兵だったのです。だからイギリス軍に比べれば質量ともに悪く、独立戦争の初期は、アメリカ軍が一方的に押される展開でした(意外な感じがしますが、ワシントンはイギリス軍と9回戦い、そのうち勝ったのは3回だけです)。

 それでも、この独立と自由の精神に溢れた武装市民がいなければ、独立戦争に勝てなかったことも明らかです。その意味で、銃賛成派が、銃をアメリカの自由の象徴と見なすのは、あながち的外れなことではない。かつて丸山眞男が「日本でも家庭に一丁ずつ銃を配れば、国民も自主独立の精神に目覚めるだろう」と述べたのも、こういうアメリカの事情を踏まえてのことです。

 しかし、軍隊も警察もなかったワシントンの時代からはずいぶん状況も変わりました。アメリカは世界一の常設軍を持ち、もうどこからも独立する必要はない(むしろかつてのイギリスの役回りをさせられている)。政治制度も整備され、銃を手に革命を起こさなくても、議会を通じて国をダイナミックに変えていくことができるシステムが完成されている。現在、銃が殺人に利用される一番の動機は、自殺です。武装市民の歴史的な役割は、もう終わっているのです ―― 少なくともアメリカでは。