相続税の適正な税率は? (2):イエと個人

 先日、相続税を取り上げたエントリには意外に多くの反響がありました。ブログを読む世代というのは総じて若いので、まだ身近な話題ではないだろうと思っていたのですが、そうでもないみたいですね。

  karl さん、かのさんからそれぞれ面白い批判をいただいたので、それに答える形でこの問題をもう少し掘り下げてみようと思います。その際、私が相続税についての考え方を学んだ師匠、橋本治に頼りたいと思います。

 まず最初の批判はこちら。

 (1)相続税は「金持ちは悪だ」という先入観によって作られた制度ではないか。

 私個人は、自分の力で築いた財産である限り、それがどれだけ莫大でも、どんな浪費の仕方をしても特段怒りのような感情は湧かないのですが、でも、現在の日本の相続税の目的の一つが、金持ちの弱体化であることは事実です。歴史的に見ても、今の相続税は、戦後 GHQ財閥解体を行うために作ったものが基礎になっています。いわゆるシャウプ勧告によって、相続税は戦前よりも高率化されました。戦争を引き起こした戦前の日本の支配階級を弱体化させるための手段として、相続税と贈与税が利用されたのです。

 橋本治も、相続税にそういう目的があることを認めています。

 相続税が"重いもの"になったのは、1945年に太平洋戦争が終わった後のことだ。アメリカとの戦争に日本が負けて、アメリカが日本を占領し、日本を新しく教育するために乗り込んできてから、そのように改正された。(p.21)
 
実のところ、多くの人間に、「相続税」なんてものは関係がない。ふつうの人間には、「親から相続する財産」なんていうものがほとんど期待できないからだ。だから、「莫大な相続税を取られた」なんていう話を聞くと、「ザマー見ろ」と思ったりもする。「莫大な相続税を取られる」ということは、「莫大な財産を持っている」ということで、それはもうそれだけでふつうの人間とは関係なくて、さらには、「そんなに莫大な財産を持っているなんていうやつは、きっとロクでもないことをしたやつに決まってるんだ」というつぶやきも浮上してくる。この「莫大な相続税=ザマー見ろ」は、ある意味ではとっても正しいのだからしかたがない。相続税というのは、そういう"悪いやつ"をこらしめるためのもんでもあるのだから。(p.212)
『ぼくらの資本論―貧乏は正しい!』

 そういうわけで、相続税心理的基礎に金持ちへの憎しみが含まれているという指摘は、正しいものです。

 さて次の批判はこちらです。

 (2)相続がなくなると、昔から継承されてきたコミュニティや文化のような伝統が断絶し、消失する危険があるのではないか。

 はい、そう思います。私は、それは機会均等を守るための仕方のないコストだと考えています。

 この一言で返答自体は終わりなのですが、この批判は、非常に面白い論点を含んでいます。それは、社会の基本的な構成単位を何だと考えるか、ということです。これについて、ちょっと話を広げてみましょう。

 現在、日本の民法その他法律の、基本的な社会の構成単位は、個人です。……そんなの当たり前? 誰でも知ってる? いやいや、これはそんな当たり前のことではありません。事実、昔の民法はそうではなかったのです。若い人は知らないでしょうが、明治時代に制定された民法では、という基本的な単位がありました。家制度が廃止されたのは戦後ですから、ほんの60年前までは存在した制度です。今でも団塊世代より上ぐらいの人は、一人っ子同士の家庭が結婚する場合に「これではどちらかの家が断絶してしまう」とか、「あなたは〜〜家の長男なんだから」といった若者には意味不明の言葉を発することがありますが、これは昔の家制度があったときの感覚の名残です。

 それが相続税と何の関係があるかというと、家制度を前提にすると、相続という現象がとても自然に理解できるのです。というのも、財産が個人ではなく家に属するとすれば、家を構成する個人が世代を経て入れ替わるとしても、家が存続する限り財産もまた受け継がれていくと考えるのが当然だからです。この場合、相続が不可能になるのは、家が消えるときです。昔の時代劇でよくあるでしょう、「お家断絶」とか「おとり潰し」というやつですね。典型的なのは男の家長がいない場合ですが、このケースには財産が全部国家に没収されるので、みんな大慌てです。急いで婿養子を迎えたりとか、いろんな手段を講じて何とか家の存続を図ろうとします。

 しかし、先述のとおり、いまの民法には家制度がありません。すると、基本単位が家ではなく個人になります。だから、個人が死んだ時点で「おとり潰し」が起こるのです。財産は没収。個人から別の個人への相続は、認められない(それはある家から別の家への相続を認めるのと同じことだから)。論理的にはすっきりしています。

 それでもまだ感情的にすっきりしないものが残るのは、私たちが、親子を別の人間だと思えないからです。法律的には、親と子は縁もゆかりもない赤の他人です。だから、親が犯した罪を子が被ることはないし、その逆も然り。昔のように親の名前を子が引き継ぐこともない(伝統芸能の世界ではまだ何代目○○とかやっていますが、あれは基本単位が個人ではない証拠です)。

 私が、マイケル・ジャクソンの残した膨大な遺産(および膨大な借金)を相続したいと言ったら、多くの人は一笑に付すでしょう。お前とマイケルとは赤の他人じゃないか、気でも狂ったのか、と。それと同じように、私が親の遺産を相続したいと言ったときにも、やはり一笑に付されなければならない。お前と親は赤の他人じゃないか、他人のものをただで手に入れようなどムシがいい、と。

 今や、「家族はバラバラだ」と言う。「家族なんてものは存在しなくて、単に一つの家で暮らしているだけの、個人個人の寄せ集まりだ」なんて言う。でも、まだまだ実際はそんなことじゃない。だって、人は平気で、「他人の家」に住んでる ―― 「親」という他人の家、「夫」とか「妻」とかいう「他人の家」にね。
 そこは、「自分の家」じゃないんだ。「他人の家」なんだ。その家の持ち主が誰か、その土地の持ち主が誰かということは、自治体の登記簿というものにはっきりと登録してあって、多くのひとはその他人の家なり土地なりに住んでいたりする。だからこそ、その家の名義上の所有者が死ぬと、「相続」ということが起こって、相続税という厄介な問題が生じる。(p.46)
 
 親にとって、子供というものが独立した人格を持つ他人であるように、子供にとってだって、親は独立した人格を持つ他人だ。……「親と子というものは、"家"というものを守っていく義務を負った、"家"という同じ運命共同体のメンバー」というのは、「家」という制度を持っていた戦前の話。今やそういう運命共同体は、制度的に存在しない。だからこそ、ある個人から別の個人へと所有が移る相続にまつわる厄介な手続き――相続税というものが存在するのだ。(pp.52-53)

 このように、相続という現象は、何を社会の基本的な構成単位と考えるかによって、大きくその見解が分かれるテーマなのです。単位をイエだと考えれば正当だし、個人だと考えれば不当です。

 すると、ここで次のような疑問を持った人もいるのではないでしょうか。個人が社会の基本単位というのは、分かりやすい。だって物理的に把握できる単位としては、あなたや私の体、つまり一個の人間しかないんだもの。じゃあ何で昔の人は、「イエ」なんていう、見えないし触れないし匂いもない抽象的な単位を考え出したのだろう。それのメリットはいったいどこにあったのだろう?

 これは、かなり深い問いです。橋本治は、この疑問に対してもいくつかの興味深い仮説をもって回答を試みているので、知りたい人はぜひ本エントリで紹介した『ぼくらの資本論』を読んでください。私が今のところ支持している仮設は、「エゴイズムの抑制装置」というものなんだけど、これはまた別の機会に話しましょう。