すべてがゼロになる:クリス・アンダーソン『フリー』

 「無料」という言葉には、人間の心を惹きつけてやまない特別な響きがあります。そのことは私たちの誰もが経験的に知っていることではありますが、最近はこの事実を裏付ける実証データも蓄積されてきています。例えば、ダン・アリエリーは『予想どおりに不合理』でこんな実験を紹介しています。

 最初に、リンツの高級チョコと普通のスーパーで売られているものと、二種類のチョコを用意し、前者に一粒15セント、後者に1セントという値段をつけて売る実験をします。すると被験者の 73% がリンツのチョコを選び、27% が普通のチョコを選びました。この結果にはおかしなところはありません。リンツの高級チョコは14セントという価格差を補って余りある品質の差があると判断されたわけです。

 次に、二つのチョコの価格をともに1セント下げます。リンツは14セント、普通のチョコは無料になります。その結果は、目を見張るものでした。突然、何てことない普通のチョコの人気が爆発し、69% の被験者がこちらを選んだのです。両者の価格差は、どちらの実験でも同じ 14セントだったのだから、人々が合理的に考えるなら、選ぶ比率に変化はおきないはずなのに。

 この実験結果が示すことは、無料には購買者の「心のボタン」を押す魔力が備わっているということです。その魔力の正体が何なのかは分かりません。アリエリーが推測するように、私たち人間の心には、物の価格を見るとそのコストパフォーマンスを計算するシステムが備わっていて、1円でもコストがかかる場合はそのシステムを作動させるための固定費がかかるようになっているのかもしれません。すると、価格がゼロの場合はそのシステムを作動させる必要がないため、1円と0円の間には、1円と2円の場合よりも判断コストに大きな違いが出ることになります。

 商売人は、昔からこのような無料の魔力を熟知しているため、これを消費者のハートをつかむ有効な道具として利用する方法を考案してきました。単純なモデルとしては、よくテレビショッピングで見かける「羽毛布団が1セット一万円。しかし今ならなんと、もう一つ無料でおつけします!」というのが典型です。これは別に2個目が無料なのではなく、もともと一つあたりの単価が 5000 円なだけです。Amazon が実施している「1500円以上なら送料無料」というサービスも、お客が 1500 円以上買うよう仕向けるという点で、これの変形バージョンです。これは厳密な意味で無料ではありません。

 もう少し手の込んだモデルとしては、イニシャルを無料にして、ランニングに薄く広く課金する方法があります。携帯電話やモデムを無料で配り、月々の使用料で回収する方法がそうです。住宅ローンで「頭金ゼロでOK」というのもこのタイプです。ランニングにコストを分散すると、一見してお得なように見えるので、これはかなり購買者の「心のボタン」を押す効果があります。応用範囲も広くて、航空料金や車をタダにする企業があるぐらいです(車の場合は走行距離に課金してペイさせる)。

 しかし、これらのモデルはまだ、結局のところは購買者に相応のコストを負担させている、という点で単純です。世の中にはもっと巧妙なモデルがあって、それは俗に「広告モデル」と呼ばれています。

 これの代表例は、TVやラジオなどのメディア・コンテンツです。私たちは、最初にテレビやラジオを買う初期投資さえすれば、後は(NHKなどの例外を除いて)無料で番組を視聴することができると思っています。そしてこのケースにおいて、私たちはそのコンテンツ視聴のコストを一切払っていない(と思っている)。だから、テレビはいくらつけっぱにしておいても、誰も気にしない。この場合、番組の制作と配信のコストを負担しているのは、広告のスポンサー企業です。

 ところが、テレビ番組が無料だという考えは、厳密には間違いです。企業は広告費を商品の価格に(またもや)薄く広く転嫁したり、あるいは従業員の給料を下げたりして捻出している。だから、広告を打っている企業の製品を私たちが買うとき、その価格は、広告を打たなかった場合に比べて 1/100000 円程度かもしれないけど、割高になっているのです。購買者全員で頭割りしているため、一人一人の負担が小さくて気づかないだけで。これは GoogleYahoo! のような Web サービスを提供する企業の場合も変わりません。ここにも、厳密な意味でのフリーランチは存在していない。

 企業はお客の心をつかみたいために、無料の魔力を利用したい。でも全てのサービスを同時にフリーにすることはできない(それをやったら1円も儲けが出ない)。ここがジレンマでもあり、またビジネスモデルを練る腕の見せ所でもあります。何を無料化(demonetize)し、何を有料化(monetize)するか。

 しかし実は、本書が指摘するように、こうした「見かけの無料」の世界の外には、本当の無料経済の世界 ―― 非貨幣経済 ―― が広がっているのです。そこでは無償の贈与や生産が大々的に行われている。みんな誰に頼まれたわけでもないのに、せっせと自分の HP を作り、ブログを書き、Twitter で呟く。私にしても、いったい、休日の貴重な時間を使って、何でこんな本の感想を書いているのでしょう?

 この疑問に完全な答えを用意するのは難しいのですが、ヒントはあります。非貨幣経済貨幣経済には、共通点があるのです。貨幣経済での価値が金銭という尺度で計量されるように、非貨幣経済にもそういった尺度が存在することです。それは評判であったり、注目を得ることでの満足感であったり、見栄や名誉だったりする。はてなのブックマーク数や Twitter のフォロワー数は、こうした曖昧な価値をある程度数値化しています。きっと今後何十年かの間に、こうした貨幣以外の尺度を使って構築される経済学生まれるでしょうが、その雛形はおそらく、1970年代にハーバート・サイモンが提唱した関心の経済学Attention Economy)です。

 情報を含むあらゆる物が無料になるということは、それらが潤沢に溢れるということを意味します。そのとき、相対的に希少性の高い財として登場するのは、情報やモノを受け取った側の関心です。私たちは皆、一日 24 時間しか持っていない。だから必然的に、処理できる情報量に限りがあります。本や Web サイトやTV番組は爆発的に増えていますが、それら全てをフォローすることはどんな頭のいい学者にもできない。また、車や飛行機の性能がいくら上がっても、全世界を旅行できるほどの時間はありません。

 いわば現代では、人間がボトルネックになっているのです。パソコンの CPU は飛躍的に処理速度を進化させているのに対し、人間の脳は、ここ数千年の間ほとんど性能が上がっていません。人間の体の構成も全く変わっていない。生物の進化はあまりに緩やかで、数万年単位でしか進まないため、いつの間にか人間がモノの進化についていけなくなってしまったのです。このアンバランスな状態が維持される限り、21世紀は、ビジネスに限らずあらゆる分野において、貨幣よりも関心の奪い合いが重要な問題になるに違いありません。