原子の孤独

 昨日に続いて無縁社会と近代社会の話。

 近代という時代が様々な縁を切ることで、人間を自由な存在にしたことは事実です。近代思想が前提する人間観は、他人と全くつながりをもたない、ちょうど裸の原子のような存在です。無人島に流れ着いたロビンソン・クルーソーみたいなものです。ルソー、ヴェーバーアダム・スミスら近代を準備した思想家たちが好んでロビンソンに言及するのは、偶然ではありません。食料の調達から寝床の確保まで、自分のことは何でも自分でやる、自立していて孤独に耐えうる強い個人こそ、近代が理想とする人物像です。

 もちろん、現実には私たちは他人と無関係な人生を送ることはないので、そんな風に何でもかんでも自分でやれちゃう人間はいません。ロビンソンはあくまで理論的な仮定に過ぎず、私たちは多かれ少なかれ、依存しあいながら生きている。だから「アトム的個人なんてナンセンスだ。人間は共同体に埋め込まれてしか存在しない生き物なのだ」というコミュニタリアンの批判にも、かなりの説得力があります。

 でも、そういう理論的な話をしなくても、近代を成立させるために必要なこの強い個人という前提に、相当な無理があることは、私たちも知っています。だって、人間誰だって年をとったら弱くなるに決まってるんですから。

 若くて体力気力が充実している頃は、そりゃあ自由きままは楽しいし、孤独なのも気にならない。でも、年をとれば誰でも体力は衰え、持病の一つや二つは抱えて、無理がきかなくなってきます。それだけならともかく、認知症や寝たきりになったりして、自分一人では自分の面倒を見られなくなってしまうこともある。近代はそういう高齢者に価値を認めず、純粋に社会の負債としてしかカウントしません。

 昔ならそれでも良かったのです。ルソーやスミスの時代は、人間せいぜい60年。ほとんどの人は、仕事から引退して数年したら他界していました。そのぐらいの短期間なら家族が面倒を見たので、あまり老後の弱さが問題になることがなかった。でも現代では医療の発達によって、人間を健康な状態に保つことは無理でも、殺さないでおくことはできるようになってしまった。まさか彼らも、未来にこんな高齢化社会が到来するとは思ってなかったでしょう。

 このように、近代思想は高齢化社会には完全にはフィットしません。だからといってこれよりマシな OS もないので、私たちは当面、文句をいいながらこの冷たい基本ソフトを使い続けるしかない。日本人がみんな「好きなことやって生きた結果、野垂れ死にするならそれも本望」と覚悟を決めて人生を謳歌した小野小町みたいに強い人ばかりなら問題ないのだけど、そうでないところが人生難しい。