拷問が許される条件
私はあまり時代劇を見ないのですが、『JIN』は 1st シーズンから断続的に見ています。先週の回を見ていたら、久しぶりに「ザ・時代劇」な拷問シーンを見かけました。和宮毒殺未遂の疑いをかけられた仁先生が取調べで石抱きの刑にかけられるのですが、先生は身に覚えがないものだから、ウンウン言いながら結構頑張る。自分ひとりだけの問題であれば、そのまま頑張りとおして獄死したかもしれないところを、取り調べ係の役人が「『自分がやった』と言わないと、お前が好意を寄せている娘も同じ目に合わせてやるぞ」と脅してくる。これにはさすがの仁先生も心が折れてついに・・・という展開。
日本では、取調べ時の拷問は、1875 年(明治 8 年)に司法省からの訓示が出るまで続けられていました。私たちは、明治維新で政治体制が一新されたような印象を抱きがちですが、実際には、明治政府での司法職(特に下級の実務官吏)は江戸時代にその仕事をしていた人々がスライドしたり、中枢部にも司法省法学校を出ていない、いわゆる「特進」組が大きな勢力を持っていたため、西洋近代の法意識が根付くには時間がかかりました。
日本人が明治以降、近代的な法規範とどのように向き合ってきたかを描いた青木人志『「大岡裁き」の法意識』には、石井忠恭という裁判官の、拷問に関する貴重な発言が採録されています。
この拷問のことで思い出したが、熊吉と申す強盗がおりましてなかなかの強情のものであったが、つまり拙者の手で取り調べたが、これより先拙者の手に参るまでには 3、4 人の係りが代わった程の面倒な奴であった。そこで拙者の手で調べるようになりましてからも、やはり強情ばかり張っていやがったからこやつ一番拷問に掛けて白状をさせて呉れようと思い、検座の面々に命令を下して熊吉を拷問にかけた。この時分の拷問というは、やはり旧幕時代と同様の拷具であって切石棒を抱かせることもある。強情の奴には切石を一つ一つ増加して積上げるのであるが、こやつ強情を張り通すから思い切って5個まで積上げた。するといくら強情の熊吉でも痛いことは痛い、苦しいことには苦しいに違いないから、最早堪りかねて、ひいひいわあわあ泣出した。……当時は皆こんなものでした。
(前掲書、p.129、旧かな遣いは適宜修正)
この率直な ―― ちょっと率直すぎて現代から見るとひいてしまう ―― 発言には、色々と興味深いところがあります。まず、この石井裁判官の頭には、人権という概念がありません。いや、あるのかもしれないが、少なくともそれは人間ならば無条件に認められる、というようなものだとは、考えられていない。彼の発言からは、容疑者に対して拷問を行うことに対する、些かの躊躇いも見出せません。それどころか、彼はこの容疑者(取調べの最中なのだから、近代法に照らせば「強盗」と断言できるタイミングではない)「熊吉」を揶揄するような書き方をしている。これは、何も彼が特別に固陋な考えの持ち主だったわけではありません。彼は裁判官として順調な出世コースを辿り、大審院(今の最高裁判所)判事を務め、後に国会議員にもなりました。
この熊吉氏は、石井裁判官にとっては、少々手こずらせた面倒な奴、程度の認識しかありませんが、その頑張りが、意外な形で日本の近代化に貢献することになります。というのも、熊吉が拷問を受けている現場に偶然、「日本近代法の父」と言われる偉大な法学者ボアソナードが通りかかったからです。彼は、この江戸時代から続く伝統を見て血相を変え、「人がこのような扱いを受けてよいはずがない。自然法に反する」と明治政府に熱烈に拷問廃止を訴えます。再び石井氏の筆によれば:
当時司法省の御雇に『ボアソナード』と云う仏国の老博士がおったが、この老博士は法律家に似合わぬ慈悲心のある男で義捐金とか寄付金とか申すと無名でだまって莫大の金を投げ込んで、素知らぬ顔をしているというほどの人物だから、囚人が拷問になど掛けられてわぁわぁ泣叫ぶ声を聞いた日には黙っていたものではない。それに丁度拙者が熊吉の拷問に取り掛かっているときに、上等裁判所の白洲のあたりをこのボア先生通過したものと見える、すると慈悲深いボア先生さあ堪らないから白洲の入口を押し開け入り込み、くだんの様子を見て諸共に男泣きに泣出しそうしてその足で司法省へ参り……過酷な拷問廃止の事を申告した。
人権の普遍性を心から信じ、それを実践する近代人ボアソナードと、「法律家のくせに、囚人に同情して泣くなんてけったいなフランス人だ」と、彼を奇異の目で見る「前近代人」石井の対照が鮮やかで、そのままドラマの脚本に出来そうな一幕です。今でこそ取調べ時における拷問は禁止されていますが、警察や検察が精神的圧力をかけて自白を強要することは日常的に行われています。昨年も、厚生労働省元局長の村木厚子さんに検察が自白を強要したことが大きな問題に発展しました。もう一度ボアソナード並みの熱血外国人を呼んで、外圧かけてもらいたいところです。
石井裁判官の発言で、もう一つ興味深い点は、彼が裁判官であるにもかかわらず、取調べを行っていることです。現在では、これはありえません。取調べは警察や検察といった訴追機関が行い、裁判官はその名の通り判決を下すだけです。しかし、江戸時代や明治初期には、こういう分業体制は成立していません。これを青木氏は「訴追機関と審判機関が分離していない」と表現しています。
いわゆる「お白洲裁判」の大きな特徴としては、訴追機関と審判機関が分離していないことと、被告人を擁護する弁護人(代言人)がいないという二点を指摘できるだろう。訴追機関と審判機関の分離というのは、やや難しい言葉であるが、「遠山の金さん」を思い浮かべていただきたい。金さんは、市井に出かけて自分で悪事を調べ(捜査)、自分で悪人を裁判にかけ(訴追)、自分で裁いてしまう(審判)。現代の刑事手続きであれば、捜査は警察官と検察官の仕事、訴追は検察官の仕事と、職能が分掌されている。そしてもちろん、お白洲には職業的な弁護士の姿はない。
(前掲書、pp.93-94)
現代の法廷は、被告人と検察が対等の敵手としてゲームを行うフィールドです。裁判官は、両者がルールを守って試合をするよう見張り、最後に勝敗を宣告する。スポーツの「審判」と同じ立ち位置です(英語ではどちらも "judge")。でも江戸時代のお白洲では、被告人の立場が圧倒的に弱く、ほとんど一方的に裁かれるのみで、自然、恣意的な判決も下しやすい。
近代と前近代とで、これほどまでに裁判の形が違うのは、裁判に求められる社会的機能が異なるからです。第二次大戦後に起草された刑事訴訟法の第一条は、「この法律は、刑事事件につき、公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障とを全うしつつ、事案の真相を明らかにし、刑罰法令を適正且つ迅速に適用実現することを目的とする」というものです。しかし、江戸時代の裁判制度は、おおよそそれを実現するために効果的な制度とは言えない。「事案の真相を明らか」にすることに不向きで、冤罪や誤審の率は高かっただろうし、裁判官は単なる法律の専門家であることを超えて、政治的・倫理的判断を行いました(『金さん』や『大岡越前』などのドラマでも、裁判官は説教くさい)。
では、江戸時代の裁判は何を目的にしていたのか。実証的な根拠はないのですが、「一度訴追されたら終わりだ」という脅しを民衆にかけることで、犯罪の発生率を下げることだったのではないか。科学的な捜査方法も発達しておらず、下手人が藩外に逃げ出したら追いかけるのが難しいなど、警察機能の低さを考えれば、社会の安定のために一番有効な方法は、犯罪の発生率を下げることです。庶民にとってお白洲がたいそう怖い場所だった、ということは幾つかの記録も伝えています。
犯罪が起きたときも、冤罪でもいいからとにかく「犯人」を特定して市中引き回しにする。真犯人を捕まえるより、「真犯人を捕まえた」と民衆に信じてもらうことが、社会安定化のためには大事だったのだ、と考えれば、拷問が「犯人」を作り出す低コストな方法だったことは理解に難くありません。公開処刑も、民衆のガス抜きであるとともに、「下手に犯罪者と疑われればお前らも簡単にこうなるんだ」という脅し効果は抜群だったでしょう。石井裁判官とボアソナードの考え方の違いは、裁判に求められる機能が、前近代/近代で大きく異なることを反映している。石井氏もまた、自分なりの職業倫理に従っているだけで、罪悪感は微塵もない。
そして、こうした前近代的な裁判の機能にも、一分の理はあるのかもしれません。何しろ取調べと裁判のコストは圧倒的に低い。弁護士も不要で、スピード裁判が可能です。また、民衆が怯えながら暮らし、犯罪が抑制されれば、結果として「安全な社会」が実現されます。そういう社会では、ボアソナードよりも石井裁判官の方が優秀な能吏として活躍するでしょう。こういう「全体の幸福のためには一部を犠牲にしてもやむをえない」という発想は、法律家よりもむしろ政治家のものです。青木氏も言うように、江戸時代においては司法と行政が未分化だったため、裁判官が政治家のような仕事までしていたとしても、それほど不自然ではありません。
ただ、そういう社会が活力に溢れ発展することは、残念ながらありえません。人の目を恐れず風変わりなことをしたり、新しい社会の仕組みやお金儲けの方法を考えようとする人間には、息苦しい社会ですし、社会もそうした人間を忌避する。だから、未来の革新的な医療技術を会得している仁先生を、江戸時代の社会が犯罪者として扱ったのは、とても理にかなっていることではあるのです。