渡辺京二『逝きし世の面影』

優しき山椒魚たちの国:渡辺京二『逝きし世の面影』

 歴史学の時代区分に、近世と呼ばれる時代があります。日本史の場合、まあ江戸時代のことと考えてください。そう聞くと随分昔のように思われますけど、「近」という語が表すように、それほど大昔でもありません。江戸末期に生まれた人には、第二次大戦後まで生きた人が少なからずいます(明治維新の年に生まれれば、終戦時で72歳)。
 私たちは、意外にこの時代が好きです。テレビで定番の時代劇には、圧倒的にこの時代を扱うものが多い。『暴れん坊将軍』『遠山の金さん』『水戸黄門』『大岡越前』『鬼平犯科帳』『忠臣蔵』・・・最近だと『大奥』もけっこう定番化してきましたね。
 いま私は適当に思いつくものを挙げましたが、こうしてみると全部見事に江戸時代です。期間が長かったし、あまり過去だと生活様式やメンタリティが違いすぎて視聴者も感情移入できない、という事情もあるでしょうけど、それにしてもこれは多い。天下泰平で鎖国中で、ろくに事件も起こらなかった時代のドラマがこんなに多いというのは、やはり私たちがこの時代に特別の思い入れがあるからでしょう。実写に限らず、漫画やアニメのようなサブカルチャーにも江戸時代はよく舞台設定に使われます。
 その魅力を一言で言えば、平和と安らぎの文化です。厳しい身分制や飢饉など、後ろ暗い面もたくさんある時代ですが(手っ取り早く知りたい人は『カムイ伝』を読もう)、ダークサイドがあるのはどんな時代でも同じです。それに、そういう暗部を補ってありあまる魅力が、この時代にはあった。そして、その魅力の虜になったのは、現代の日本人だけではありませんでした。
 幕末から明治にかけて日本へやってきた西洋人たちは、東洋の辺境に美しい自然に囲まれ人心穏やかに暮らす日本の人々に触れたとき、非常な驚きを受け、口々にその美質を賛美しました。そこには、自分たちの優位性を前提にした上でのもの珍しさもあったことでしょう。でも、彼らの多くは、自分たちのそうした偏見を反省し相対化できるぐらいの知性と良心に恵まれた人々でした。物質的に豊かな生活とはいいがたいのに、互いに助け合い、邪心なく自足した生活を送る日本の一般民衆を見たとき、彼らは思わず「エデンの園」という最高級の賛辞を使う衝動を抑えられませんでした。普通、西洋にこういう相対主義的な視点が生まれるのは、戦後に文化人類学が現れてからだと言われますが、稀有な例外がこのときの日本では生じていたのです。
 いっちょう未開地のサルどもにアヘン吸わせてぼろ儲けしたろか、と勇んで「植民地候補地」に着いた彼らが見たのは、驚いたことに、かつて彼らの国が永遠に失ってしまった「良きもの」を、今まさに失おうとしている楽園の黄昏でした。既に近代化と工業化の洗礼を受けた彼らは、その意味で一度「終わり」を見た人々でした。だから彼らには、日本が「終わりの始まり」を迎えていることが理解できた。当の日本人には、それは分かりませんでした。あるいは、気付いていたとしても、近代化を成し遂げねば植民地として支配されるだけの地獄が待っている以上、積極的に口にすることはできなかった。「たとえあらゆる良きものを投げ捨てでも、私たちは生き延びることを優先せねばならない。」 それが明治の日本人たちの覚悟でした。その覚悟を批判することは何人にもできない。

 それでも――。
 日本人たちは前を向き、自らの戦いを戦っていくだろう。彼らには、後を振り返る余裕はない。でも、後に捨てられていくもの、いままさに逝こうとしているものたちを記録し、看取ってやることも、誰かがやらねばならない。それが出来たのは、偶然その日その場所に居合わせた異邦人たちだけでした。チェンバレンは自著『日本事物誌』を「古き日本の墓碑銘」と呼びました。「古い日本は死んだのである。亡骸を処理する作法はただ一つ、それを埋葬することである。・・・・・・このささやかなる本は、いわば、その墓碑銘たらんとするもので、亡くなった人の多くの非凡な美徳のみならず、また彼の弱点をも記録するものである」(同書)
 私は、本書に集められた膨大な彼らの古き日本に対する愛惜と、新しい日本に待ち受ける苦難の予言を読んだとき、一つの小説のラストを思い浮かべずにいられませんでした。カレル・チャペック『山椒魚戦争』。日本人がモデルという説もある知性ある山椒魚たちは、最初人類によって奴隷として酷使されていたが、やがて団結し、自由を勝ち取らんと人類に戦いを挑む。小説は、最初に山椒魚を見つけた船長を資本家に取り次いだ門番が「あそこで私が主人にとりつがなければよかったんだ」と苦悩するシーンで終わります。

 「知性ある山椒魚を、そのままそっとしておけば!」―― それは、そのまま明治に日本を訪れた西洋人たちが抱いた感想でもあったでしょう。「あの優しい日本人たちを、そのままそっとしておけば!」―― その方が、西洋にとっても日本にとっても幸せだったのではないか? あのまま日本が鎖国を続けて平和な日々を送ることができたのなら、それにこしたことは無かったのではないか? 事実、遠からず日本は凄まじい速度で近代化を成し遂げ、あろうことか、西洋世界に対して覇権を賭けた戦いを挑むことになります。まさにチャペックの山椒魚たちのように。

 本書の描く風景は、全く見たことがないにもかかわらず、不思議に懐かしく、また親しみを感じるものです。もう戻れないことを知っているだけに、一層その愛惜は強いものになります。でも、近代以後に生きる私たちは、ただノスタルジーに浸るわけにはいきません。自分たちのかつてのルーツと断絶を知った上で、なお近代主義者であるしかないのです。