MEN WITHOUT WOMEN:『クローズ』『ワースト』

 『クローズ』の映画版には、ヒロインがいるんですね。ビデオ屋でパッケージを見て初めてしりました。女優は黒木メイサさん、ていうの?どこの映画会社か知らないけど、ずいぶんもったいないことをする。

 女が一人も出てこない、というのが原作の最大のとりえだったのに、これを抜かしたらほとんど『ろくでなしブルース』と変わるところがない。作者の高橋ヒロシさんは、(たぶん)非常な忍耐と注意深さをもって女性の図像を作品から排除したのに、その努力を全く汲むことなく安易に女を登場させてしまうのは感心しない。

 「女がいない世界では、男は殴りあうことによって真の友となる」というのが、原作の圧倒的に魅力的なメッセージでした。この漫画と対になって語られることの多い、しかしコンセプトとしては全く裏と表の『ろくでなしブルース』では、しばしば女の奪い合いが原因で男同士の間に深刻な争いがおきていました。前田 VS 薬師寺しかり、前田 VS 原田しかり・・・・・・女が絡む争いでは絡まないときの抗争に比べて怨恨の度合いが数段深くなる。

 『CROWS』および続編の『WORST』が、表面だけ見ればケンカばかりの殺伐とした漫画にもかかわらず、多くの「男の子」たち(年齢は問わない)に胸のすく開放感と救済の感覚をもたらすのは、ひとえにこのカラスの世界が男だけで構成されていることの手柄です。女の「影」が出ることはあっても、図像としては皆無だし、その影が出るときには常にメン・オンリーの共同体に不和をもたらす「不吉なもの」という形で出てくる(だからその不吉さはすぐに男の子同士の漫才によって祓われる必要がある)。

 日々、女のケツを追いかけている春道とグリコが、その鬼神のごとき強さとカリスマ性にもかかわらず、「男の子共同体」のはぐれ者に甘んじているのは、彼らが最終的に信用おけないからです。土壇場で友情よりも女をとる奴、という嫌疑から自由になれない。そしてそもそも、本人たちにも男の子共同体の安定メンバーとして加わる意志がない。

 『CROWS』で男の子から尊敬を集めるのは、女の影が微塵もない九能龍信であり、告白しては振られまくるブル君です。片や大型チームからも一目置かれる少数精鋭集団の頭領、片や最大組織の頂点に立つドン。この漫画の表向きの主人公は春道ということになっているけど、私の見るところ、本当のヒーローはこの二人です。事実、特に龍信には熱狂的なファンが多いと聞きます。「女にうつつを抜かして腑抜けになった龍信」や「ついに彼女ができたブル」などというキャラクターは、登場してはならんのです。

 女と中途半端に関わったばかりに酷い傷を負わされた男の子たちの傷を癒すための物語――へミングウェイが『男だけの世界』という挑戦的な名前を持つ短編集を世に送ってから半世紀の間、アメリカでも日本でも、ハイカルチャーでもサブカルチャーでも、そのような物語が連綿と語られつづけてきました。「そう落ち込むな。女なんかいない方が、俺達はうまくやっていけるさ。帰ってこいよ、俺達のところへ。」『CROWS』はそう福音を説くのです。

 「女がいない世界では、男は殴りあうことによって真の友となる」という命題は、全体としてはきっと正しいのだけど、前件が明らかに偽なので、現実的には意味をなさない(仮に女のいない世界が成立したとしても、再生産できないので一世代で早々と潰える宿命にある)。「花一家」というけれど、女のいない一家というのも現実的に考えればきわめて異様です(しかしその違和感は絶対に漫画の中では表明されない)。

 現実には、男たちの怨念は消えることなく蓄積されていく。その傷つき荒ぶる魂を鎮めるためにこそ、『CROWS』のような「男だけのユートピア」を描く物語の役割はある。ここに女を登場させては、原作の持つ消炎・鎮痛機能がごっそり消えてしまう。

 しかし、下手な映画にしたなと思う一方、日本では、映画はカップルがデートで見に行く場合が多いことを考えると、仕方ないかという気もします。男の子でワイワイ連れ立って見に行くのも悪くないと思うし、『CROWS』はまさにそういう映画にできたと思うけど、初めてのデートで行ってみたら「女の出る幕はねえ」という強烈なメッセージを伝える映画だった、などということになって、相手方に喧嘩を売っていると取られては、その後の進行に支障をきたすのは火を見るより明らかだものね。