不公正な初期財産

 氏か育ちか(nature and nurture)という問題は、洋の東西を問わず、常に論争の的になってきたテーマです。私たちの能力や性格といった資質はどうやって決まるのだろう。そしてそれらが絡み合って形作られる人生というのは、究極的なところ何によって決定されるのだろう。大事なのは遺伝か、それとも環境なのか、という問題は、ちょっとでも物を考える人にとっては興味の尽きないテーマです。

 私たちが生きる近代という時代は、この問題に対しとても簡潔明瞭な答えを返します。「人生はほとんどすべて、環境によって決まる」というのがそれです。人間は努力すれば何でもできる。生まれた身分や血筋なんて関係なく、勉強すれば学者にだって社長にだって首相にだってなれる。生まれたばかりの人間は何も書かれていない白板(タブラ・ラサ)だ、と言ったのはジョン・ロックですが、近代は彼の人間白紙説を全面的に採用している。

 近代がこうしたテーゼを採用したのは、これが人間の力を最大に引き出し、社会を大きく進歩させる力を持つ考えであることが分かったからです。昔は生まれた時点で人生は決まっていました。身分の外に出ることは不可能だったので、分不相応な努力をすることもなかった。しかし、近代に入ると全ての人にチャンスの目が生まれ、人は努力を覚えました。竹内洋氏も指摘するように、この努力の熱が近代社会という巨大な軍艦を動かす推力になったのです。

 しかし、このタブラ・ラサのテーゼには問題があります。ウソっぱちだ、とまでは言わないまでも、あまり正しくないのです。私たちはみな、努力が全てではないことを知っている。頑張れば全員がイチロー伊達公子になれるわけではない。スポーツの世界では黒人アスリートが有利な遺伝子を持っていることは事実だし、ビジネスにおいても、人々の収入の差の 40% は遺伝によるものです。

 この事実は近代社会にとって都合が悪いものです。勝負が始まる前に「お前はもう負けている」と宣言されたら、多くの人はやる気なくすので、結局、努力するのは才能に恵まれた一部の人だけになる。それではまるで階級社会への逆戻りなので、この事実についてはみんな気づいてるけど気づいていないフリして聖なる嘘をついているのだ …… と、今まで私は思っていたのですが、最近、藤沢数希氏の不思議な記事を読んで、ちょっと首を捻りました。

 氏は、近代思想のエッセンスを極端に突き詰めたリバタリアニズムを信奉していて、リバタリアンらしく普段は高い税金に不平を鳴らしている。まあ、税金取られるのが好きな人間なんていないので、税への文句はリバタリアンだけの専売特許ではありません。でも、普通の人が感情的に徴税に反発するだけなのに対して、リバタリアンは社会正義のレベルで批判します。その論拠は、税が財産権への侵害であり、同意なしに人から財産を奪うことはできないから、というシンプルなものですが、しかしこの論拠は、厄介な問題を内包しています。

 リバタリアンは、上記の税への反発から容易に想像つくように、所有権にこだわります。人間が何を所有することができて、どのような資格において所有は正当とみなされるか、ということに執着する。彼らがまず文句なく所有しているとみなすのは、自分の心身です。これは人間が誰しも所有する初期財産だと考えられる。リバタリアンが売春や薬物使用を認めるのは、自分の体は自分の所有物なので、どういう風に扱うのもその人の財産権の範疇だ、と考えるからです。

 次に所有する権利があると考えられるのは、労働です。自分の所有する体や頭を使って行う労働も自分のものだ、と彼らは言う。そして最終段階として、労働の結果得られた果実 ―― 大抵の場合は収入 ―― も所有する権利がある、というところに行き着きます(この推移的論法で労働の成果に対する所有権を擁護したのは、やはりロックでしたが、現代の理論家ノージックも同じ議論を踏襲している)。

 しかし、ノージックたちはこの論法が適格であるためには、幾つかクリアしなければいけない付帯条件があると言います。そのうちの一つが、「初期財産の公正」です。つまり、お金を稼ぐために用いた元手は他人から盗んだ物であってはならない、ということです。

 確かに、持って生まれた才能は、他人から盗んだものではありません。でもその才能を与えられた人は、それを得るために何か特別の努力をしたわけでもない。宝くじに当たったようなもので、端的に運がよかっただけです。私たちは普通、宝くじに当たった人について、その人の資質を賞賛したり尊敬したりしません。たとえその人が宝くじで何百億円もらおうとも、同じ額を労働によって稼ぎ出したベンチャー企業の社長みたいに『トップランナー』に出たりしない。

 まあそれはともかく、同じゲームに参加するプレイヤー同士における、そうした初期財産の格差をフェアと認めることは難しいでしょう。「今からサバイバルゲームをやろう。君の武器は竹槍。僕はマシンガンとバズーカね。ああ、ピンチになったときは戦車も使うから。それじゃ、お互いベストを尽くそうwww」 こういう態度をフェアだと言う人間がいるとは、私には思えない。

 この点で、人が持って生まれた様々な資質は、本当に所有の正当性があるかどうか、疑わしいものです。むしろ、その資質を祖先から受け継ぎ、またどのような資質が価値あるものと見なされるかは社会的条件から決まる以上、少なくとも一部は社会の共有財産と見なすのが正当なはずです。人間は実際には、完全に独力で財を成すのではなく、社会から既に借り受けた初期財産を使ってそうしている、ということです。だから、人には労働によって得られた成果の一部を社会に還元する義務があるのだ、というロールズの議論は、説得力を持って響く(「資質」と「社会」の範囲をどう確定するか、という問題は残るにせよ)。

 でも初期財産の格差を認めることは、リバタリアニズムの屋台骨である自己所有権のテーゼにおいて譲歩を認めることになる。その帰結として、所得税を正当だと認めなければならない。たぶん、多くのリバタリアンはこの譲歩に難色を示すと思うけど、では彼らの立場からどういう反論が可能か、私には検討がつかない。藤沢氏はずいぶんあっさり(というかむしろ嬉々として)初期財産の格差を認めてしまっているけど、その不公正さについてはどう考えているのだろう。「自分は運良くマシンガンを持って生まれてきたのでノープロブレム」とは、思ってないと信じているけど。