Run & Gun――武装市民のユートピア:佐々木俊尚『ネットvs.リアルの衝突』

 アメリカ人に「なぜ銃を持つのか」と訊ねれば、その答えは十中八九が「自衛のため」というものでしょう。これはそれなりに彼らの実感を代弁する言葉ではあるのだけど、でもその場合問題になるのは、「一体誰から身を守ろうとしているのか」ということです。

 私たち日本人は、「自衛」と聞くと、すぐに「最近この辺も物騒になりましたねぇ」「こないだもあそこの通りで通り魔が出たらしいですわよ」というふうに、暴漢を具体的な敵としてイメージしますが、これだとアメリカ人の銃へのこだわりは理解できません。だって本当に敵がそういう連中なら、むしろ銃やナイフを全面規制して「刀狩り」&「銃狩り」でもやった方が絶対に安全に決まっているじゃないですか。監視カメラや警官の増員も不要で安上がりだし(秀吉は賢かった)。

 アメリカ人が銃によって身を守ろうとするとき、襲ってくる主体として想定されているのは、そんな一介の「民間人」ではありません。もっと強大で、明確な意図と規律を持った侵略者たち――国家権力こそが、彼らの敵です。

 自らの戴く政体が取り返しのつかないほど腐敗し、統治能力を欠いたとき、自分たちのコミュニティの安全と財産を保証してくれないと判明したとき、市民一人一人が銃を手にする民兵となり、現存の政体を打ち倒す。アメリカ人にとって、銃は革命権を保証するパワーの源です。何しろ憲法で武装権が保証されているお国柄です。

 さて、ここで話は突如としてコンピュータに移るのですが、PC、すなわちパーソナル・コンピュータもまた、アメリカ人(の一部)にとっては、銃と同じ意味で、政府の権力的介入から個人の自由を守る道具として観念されています。特に、インターネットの発展により、国家権力から自由なサイバースペースが現実味を帯びた存在となり、広く一般家庭にも高性能マシンが普及し始めた頃から、PCの重要性は銃に匹敵するものとなっていきます。

 本書は、オープンソースWinny 事件で悪名ばかり先行してしまったP2PWeb2.0 といった近年の Web 世界の動向を総括した本です(展望に関しては弱いけど、新書なのであまり贅沢は言えない)。それだけの本なら幾らでも他にありますが、本書の骨太なところは、こうした一連の動向の淵源が、1960年代アメリカの自由を求める反体制運動であるヒッピー・ムーブメントに求められることを明らかにし、大きな思想の潮流の中に個々の現象を位置付けていることです(第4章)。「現在のインターネットの基盤は、60年代のカウンターカルチャーにある・・・・・・そして60年代のカウンターカルチャーでは既存の権力は否定され、人々がお互いにつながりあう新たな文明のかたちが模索された。」(p.106)

 ヒッピーの指導者の一人スチュアート・ブランドは「インターネットを経験した人は、自分が官僚主義の非情な世界ではなく、文化の薫り高い牧歌的な世界の中にいると感じるだろう。その世界は実のところ、60年代の残映だ。当時のヒッピー共同体主義自由主義が、サイバー革命の原型を作ったのである」と述べているし、そのブランドの作った雑誌にのめりこんでいたのは、後に「誰でも簡単に扱える廉価なコンピュータ」を世に送り出すスティーブ・ジョブズでした。彼はいわば、アメリカにもう一丁の銃をもたらしたのです。それも単発式じゃなくて、ほとんど機関銃レベルのやつを。アメリカのプログラマたちがなぜにあれほど反抗的で反権威的なのか(そして逆に日本のプログラマがなぜ伝統や権威に相対的には従順なのか)という理由も、こういう歴史的な観点からみると納得できます。

 でも、それでは本当にインターネットは、ヒッピーの夢が実現する「牧歌的な世界」になったかというと、いささか話がややこしくなる。第9章でも描かれているように、国家は何とかしてネットの世界を統御し、飼いならそうと乗り出しているし、既存の著作権ビジネスを破壊しかねないP2Pは、「リアル」世界の権力からは、激しい拒否反応をもって迎えられています。ネットは、じりじりとリアルの世界に押し切られているように見える。多くの人々は、無制限の自由よりは多少の不便と監視を受け入れてでも安全を選びたがっているように見える。mixiのようなある種閉鎖的な人間関係に基づくシステムは、ネットの自由至上主義とは本当は相容れないはずなのに、現実に多くの支持を集めていることはそのことを傍証しています。

 そしてもう一つ、深刻な問題があります。著者も「無間地獄」という言葉で表現するとおり、ネットに一度ばらまかれた情報は下手をすると半永久的に消えることがない。リアルの世界ならば「人の噂も75日」というけれど、ネットでは過去のあやまちが無限に晒されたままです。「インターネットの理想はいまや、無限の悪意が満ちた空間と、国家権力の介入の間で押し潰されそうになっている」(p.152)という悲痛な認識は、残念ながら正しい。私が危惧するのは、この不寛容さは、ごく一部の「悪人」たちのせいなのではなく、むしろネットの本性の一部なのではないか、ネットは最初からディストピアだったのではないか、という点です。著者はそこまでネットを否定したくはないと思うけど、この疑問は避けて通れない。

 じゃあ私たちは、ネットに対してどんな態度をとるべきなのか? これはおそらく、社会全体として自由主義にどの程度の価値を認めるか、という定量的な問題になるのでしょう。「多少の犠牲を払ってでも自由は擁護するべきものである。ちょっとぐらいヌード画像ばら撒かれた程度でガタガタ言うな。殉教したと思え」と原則論で突っぱねるか、「いやそうは言いましても、やはりリアルと衝突しない程度の、ホドホドの利用にとどめていただくのがよいのでは」と日和るか。私としては、こういう場合、原則論は斥けて、定量的なトレードオフでなし崩しにしてしまうのが好きなんですけど、皆さんはいかがでしょうか?