勝間和代のジレンマ

 ニュースサイトをブラブラ見ていたら、今をときめく勝間和代についての記事があって、ほー、としばし読んでいました。私も、本は買ったことがないけれど、名前ぐらいは知っていますし、一冊パラパラと立ち読みしたこともあります(どういう本だったかは失念)。

 「正しいやり方をすればだれでもキャリアアップできる」という触れ込みは、明らかに誇大宣伝ですし、本人もそれは方便だという旨の発言をしているので、真に受ける人もないでしょうし害もないと思いますが(これを真に受けるレベルの人は、彼女の本を読むより先にやることが沢山ある)、でも思考実験の材料としては面白い。これを敢えて真に受けて、誰もが10倍の生産性をあげたり、誰もが10倍の財産を築けるようになる、そういう「正しいやり方」がある、と仮定してみましょう。

 すると、そのやり方を実践することで、最初に 1 の能力(財産)があった人は 10 に、5 の能力(財産)があった人は 50 になります。結果、両者の開きはますます大きくなるだけで序列は変わらない。従って、彼女の本を全員が読むという事態が生じると、スケール(尺度)が大きくなるだけで、個々人の関係はそのまま、ということになります。これは、彼女の読者が望む結果ではないでしょう。みんな他人に先んじたくて読むのだから。

 従って、ここに「彼女の本は売れれば売れるほど効果が薄くなる」という困った結論に達します。多くの人に福音を届けたい伝道師としては、耐えがたいジレンマです。でも、これは避けることができない現象です。情報の価値は広まれば広まるほど減じていく。ワインバーグラズベリージャムの法則と名づけた、情報の鉄則です。伸ばせば伸ばすほど、ジャムも情報も薄まって味がしなくなる。

 そしてこの鉄則は、もっと敷衍することができます。情報産業の最も古典的な形態は、教育ですが、実はこの教育も「もともとあった格差」を広げることに貢献してしまう側面があるのです。というのは、こういうことです。子供たち全員に一様な教育を施せるという(現実的ではないが、しかし理想的な)条件が整った場合、教育を受けた者たちが皆、等しい能力を身に付けるでしょうか? 答えは、否です。そこにはやはり厳然たる差が出る。遺伝があるからです。ここで言う遺伝は、生後の家庭環境なども含む広義の意味、本人の意志ではどうにもできなかった要因、ということです。マット・リドレーの言葉を引きましょう。

食物、両親の世話、教育、本などがなければ、人が知能を身につけられるはずがない。しかし、こうしたメリットをすべて享受している人々の集団のなかでは、テストでよい点をとるか否かのばらつきは、遺伝子に原因をたどれる。その意味で、知能のばらつきは遺伝的なのである。たいていの学校には、すむ場所や階級や経済環境がそろった似たような生い立ちの生徒が集まっており、生徒は一様な教育を受ける。こうして環境が及ぼすばらつきを小さくした結果、学校は無意識的に遺伝の役割を大きくしている。高得点の生徒と低得点の生徒の差は、遺伝子に還元されることになる。ばらつく要因はそれしか残っていないからだ。(『やわらかな遺伝子』

 近代の皆教育という制度は、封建時代の身分や門地などの生まれで人が選別される状況を打破するために導入されたものでした。本人の後天的な努力次第で先天的な差をくつがえせるチャンスを与えることを目的にしていました。だから、「門閥制度は親の敵で御座る」と言った福沢諭吉のような人物が『学問のすすめ』を書き、教育機関を作ったのは、当然のことでした(福沢の家は下級武士だったので、実力があっても認められることはなかった)。その教育がいざ隅々まで行き渡ってみると、逆にそれが先天的な要因を強調する結果になろうとは、かの偉大な頭脳も気付かなかった。

 これは、福沢から勝間さんにいたるまで、啓蒙家が原理的に抱え込んでしまった矛盾です。まだこれを解きほぐした人間は、私の知る限りいない。