未完の革命:ダーウィンの危険な思想

 今年はダーウィン生誕200年、『種の起源』刊行150周年というダブル・ダーウィン年のため、あちこちダーウィン/進化論の特集が組まれています。

 進化論は、相対性理論と並ぶ科学上の革命との評価も高く、どちらも人間の認識を根底から覆えしたました。社会的影響の射程という点では、相対性理論を上回ると言っていい。しかし、現代では相対性理論を否定する人はほとんどいないのに対し、進化論はいまだ世界中に多くの反対者を持っています。といっても、その理由は、進化論が「難しい」理論だからではありません。少なくとも相対性理論に比べれば、そのアイデアと論理ははるかに分かりやすい。そうではなく、スティーヴン・ジェイ・グールドが言うとおり、進化論が理解されないのは、人々が進化論を理解したがらないからです。進化論は、生物の存在の多くを偶然と自然法則によって説明し、神の介在を不要とするため、信仰心と衝突します。それほど積極的に神を信じているわけではない人にとっても、進化論の唯物論的な説明はいくぶん寒々しく感じられる。当のダーウィン自身も、この点には大いに苦しみました(彼はもともと聖職者になるつもりで神学を学んでいた)。

 自然選択によって生物が様々な環境に適応していくというアイデア自体は、ダーウィン以前にも現れていました。早くは紀元前にギリシアエンペドクレスが非常に粗い形でこの説を唱えているし、中世イスラムにおいても、アル-ジャーヒズやイブン-ハルドゥーンらが生存競争について論じています。その後、彼らの考えはヨーロッパに輸入されて、ホッブズらの思想家に影響を与えます。

 このように、進化論に近い概念はヨーロッパにもアラブにも昔から存在していたのですが、なぜ 19 世紀に一気に広まったかといえば、これを受け入れる社会的条件が整ったからでした。まずフランスのラマルクが植物学の分野で口火を切り、生物がその体を変容させうることを「発見」したと考え、進化論を強力に擁護します(彼は、獲得形質が遺伝すると考えるミスを犯しましたが)。

 しかしより決定的な一撃は、経済学の分野から来ました。マルサスの『人口論』です。この本の内容は、かなり恐ろしいものです。食糧の生産量は技術的な限界から線形にしか増えないが、人口は指数関数的に(つまり爆発的に)増える。そのため、世界には全ての人間を食べさせるだけの食料が不足しており、必然的に食料を奪い合う生存競争(平たく言うと殺し合い)が展開されるであろう ―― 。

 マルサスのこの予言は、ありがたいことに間違っていたことが後に分かります。人類は飛躍的な食料増産に成功する。まあ、後から振り返れば彼の心配は杞憂だったのですが、でも 19 世紀にはそんなことまだ分かりません。この書物は大きな衝撃をもって迎えられ、当時は「適者生存」とか「優勝劣敗」という言葉がブームになり、大いに論じられていたのです。ダーウィンの従兄弟のゴールトン優生学を創始したのも、まさにこの時代でした。「負け組みにはなりたくない」という風潮の強い今の日本と、少し似た雰囲気がないでもない。

 マルサスの考えは、間違いではあるものの、その与えたインパクトは巨大でした。ダーウィンも、進化論の直接のインスピレーションをマルサスから得ていることを、自伝で認めています(「たまたまマルサスの『人口論』を読んでいたとき、ふと、環境により適応的な変化をできる種が生き残り、そうでない種が破壊されるのだ、という考えが浮かんだ」)。ちなみにほぼ同時期、彼の友人のウォレスもまた、同じ考えを独立に得ているのですが、一般には進化論の創始者とは見なされていません。扱いが低くてちょっとかわいそうな人物。

 ま、それはさておき、ダーウィン自然選択という概念には、一般によく誤解されているような「進歩」の含意はありません。ダーウィニズムというと、人種の間に序列をつける差別的な思想というマイナスのイメージが拭いがたいのですが、実は本人は「進化は進歩ではなく目的もない」と考えていました。あるのは、環境に対する相対的な適応と不適応だけであり、種同士の間に絶対的な優劣関係などない、従って人間が最高次の存在であるわけもない、というわけです。キリスト教徒から嫌われるわけだ。

 学説の中に倫理的な価値判断を持ち込まないという点で、ダーウィンは確かに一流の科学者でしたが、でもそうした自制は多くの人間には望めません。この後、進化論は優生学を生み、ナチスに都合よく利用され、危険な社会思想の道具として利用されていくことになります。

 でも、ダーウィンに戻って考えるなら、本来、進化論とはむしろ、生物の長い歴史において、相対性と偶然性と多様性の果たす重要性を明らかにするもののはずです。一つの環境に適応しすぎた生物は、他の環境において容易に不適応な存在となり、絶滅の道を辿る。生物がかくも多様であるのは、適応のためです。そしてその多様性は、多くが偶然によって決められるのであって、そこには神の意志は関係ない。実は、進化のプロセスにどの程度の偶然性を認めるかは、今でも科学者の間で見解が分かれています。グールドのように、もう一度時を数十億年前に戻したら、今度は全く違う地球の歴史が展開すると考える者もいれば、いや、全く同じ歴史になるはずだ、という主張もある。ダーウィンの遺産は、まだまだ完全に消化しきれてはいない。それは科学者にとってもそうですし、社会とそこに生きる人々の意識にとっても、常に進化論は大きな影響を与えつづけていくのです。