すべてを白日のもとに曝そう

 知ってる人は知っているかもしれませんが、私の仕事はシステム・エンジニアです。その中でも特にデータウェアハウス(DWH)という分野が、一応の専門ということになってます。これは、沢山のデータをドカンとデータベースにつっこんで、それを色々ひねり回してなんか面白い結果が出ないかな、という若干怪しげな分野で、最近ではビジネス・インテリジェンス(BI)という名前でも呼ばれています。でもこのチャラい名前が私はあまり好きじゃなくて、「データの倉庫」という響きの方が武骨な感じがして格好いいと思う。それにインテリジェンスなんていうけど実態は全然インテリじゃない。あんまりここ深く掘り下げると本業で食べていけなくなるので、これ以上言わないですけど。

 この DWH/BI という分野は、今ではいろんな業界に浸透していて、製造から小売、サービス業までみんな呪文みたいに「BI、BI」と言ってます。また IT ベンダーにとっても数少ない成長分野なので、競って新しい製品を開発したり有力なベンチャーを買収したりしています(最近では IBM が DWH アプライアンスの Netezza をお買い上げになったというのが業界内ではビッグニュース)。でも、私にとってこの DWH/BI が最も浸透してほしい分野は、上に挙げたようないわゆるビジネスの世界ではありません。意外かもしれませんが、それは、医療の世界です。

 私たちが病院や歯医者にかかると、「レセプト」という紙切れをもらいます。英語で書くと Receipt。「レシート」という英語読みのが馴染み深いですね。医療の世界は昔からドイツ語を使うので、これもドイツ語読みなんでしょう。レシートというのは私たちが買った商品とその価格の内訳が記載されている明細なわけですが、医療の場合は診療サービスが商品なので、「どんな診療行為をどれだけやって、それぞれの内訳の価格はいくら」というのが記載されています。単位が「点」ですが、大体 1点=10円のレートです。

 今までこのレセプトはずっと紙媒体だったのですが、そのせいで色んな不都合が生じていました。有名かつ腹立たしいものとしては、不正請求です。やってない診療行為をレセプトに記載して医療費を請求するあからさまなものから、あまり必要ない診療行為をやって水増しするグレーなものまで、手口は色々です。レセプトは、一応審査機関(保険者)によるチェックが行われるのですが、専門的な知識が必要な上、大量の紙を人の目でチェックするという原始的な方法なので、不正を見抜くのが難しかった。こういう言い方は頑張ってる審査機関の人が怒るかもしれないけど、かなり「ザル」なやり方だったのです。

 もう一つの問題は、情報が電子化されていないので、医療の基礎データがものすごく不足していることです。たとえば、どんな病気の患者が実態としてどれだけいるのか、ということさえ、今までは正確にわかりませんでした。研究者自ら「日本中でがん患者が本当は何人いるのかという問題は、長年にわたって研究者を悩ませてきた」(永田宏『命の値段が高すぎる!』)というほどです。レセプトが電子データとして作成されるようになれば、直接データベースにぶっこむことが可能になり、正確なデータを扱えるようになる。電子レセプトは良いことずくめです。

 医療データの電子化でもう一つ重要なのは、カルテです。いま、カルテの情報は基本的に病院内だけでしか流通しないクローズドな情報です。でかい総合病院だと診療科内に閉じてしまうことさえある。そのせいで、私たちは違う病院にかかるたびに、医療情報がリセットされるという不便を味わっています。毎回「えーと、ちょっと高血圧気味で、3年前に胃潰瘍やっちゃいまして、海老にアレルギーがあって・・・」と一から説明しなければいけない。でも、カルテやレントゲン、CTスキャンの画像などが電子化されて、全国の病院間で共有されるようになれば、初めてかかる病院でも医師が即座に病歴と診療歴を知ることが可能になります。私たちは、IC カード化された保険証を受付で「ピッ」とリーダーに通すだけでいい。

 ただここには若干の、というか人によっては相当の、というか、まあプライバシー的な問題もあって、例えば看護婦さんから「あら、2年前に淋病・・・そのちょっと前に非淋菌性尿道炎・・・性病にかかりやすい体質でいらっしゃるんですね」とか言われたら、一体自分はどんな羞恥プレイを受けに病院に来たのか、と思うでしょう。それが精神的負担になって病院へ行きにくくなったりしたら、せっかくの医療制度改革も逆効果です。実際、今でも保険診療を受けると健保組合を通じて会社に病歴が知られるので、恥ずかしい病気の場合、泣く泣く自費診療している人はいる(注:私の体験談ではない。前掲の永田氏の著書に書かれているのです。念のため)。

 確かに医療情報というのは、プライバシーの中でもデリケートなものです。特にハンセン氏病のような感染症の場合、病歴が知られることが社会的差別につながったり、仕事上のキャリアで不当な扱いを受ける可能性がある。『フィラデルフィア』という、トム・ハンクスがアカデミー主演男優賞を受賞した映画があるのですが、これは HIV ウィルス感染者だと分かったことが理由で事務所を解雇された弁護士が、事務所を相手どって訴訟を起こす物語です。

 上記のような問題はあるにせよ、私はカルテの電子化とそれに基づく情報共有は、社会全体としてのメリットが大きいと思います。不都合な情報が「ダダ漏れ」になることによる問題は発生するかもしれませんが、そのときは偏見を持つ相手に対して戦うまでです。トム扮する弁護士がそうしたように。「正義は我にあり」です。レセプトにせよカルテにせ、情報が公開されて困るのは、最終的には不正を行っていた卑怯者か、社会正義にもとる愚か者です。この点に関して私は楽天的だし、社会の進歩を信じてます。プライバシーというのは、社会が改良されるたびにその範囲を狭くしていき、やがて消滅するたぐいの概念だ、と私は思っている。

 日の光を恐れるな。それは悪魔と吸血鬼のやることだから。