幻想としての戦争:長山靖生『日露戦争―もうひとつの「物語」』

 私たち日本人の大半は、幸いにして(これが「幸いにして」でないとは、誰にも言わせない)リアルな戦争というものを知りません。頻発するアフリカの内乱や近年立て続けに起きたアフガン、イラクにおける戦争も、私たちはみんな戦場を実地に経験したわけではない。情報の全てはメディアを通して得られた、その意味で必然的に虚構化を施されたされたものです。

 でも、別にそれが悪いわけではない。戦争なんて実地体験せずに済むならそれにこしたことはありません。「国際社会での地位を確立するために、日本も戦場で血を流すべきだ」という立論をする政治家がいるけれど、そんなことしなければ得られない「地位」なんて、どうせ大したものではありません(それに、本当に得られるかも怪しい)。

 ただ、私たちが戦争について語るときに気をつけなければならないのは、それが「虚構」つまり既に幻想や物語の水準のものであって、リアルな戦争について語っていると錯覚してはならない、ということです。銃後の人間にとって、戦争は幻想としてしか機能しえない。そして幻想は、現実とはかなり異なった作用を人間の心理に及ぼす。その点を見落とすから、議論が暴走を始める。

 日本人が初めて経験した「幻想としての戦争」は、日露戦争でした。この戦争についての歴史から、私たちは、人間がどれほど幻想に対して脆く無防備かを学ぶことができます。開戦前、ロシアとの絶望的な国力差という「現実」を知る政府や知識人が慎重論だったのに対し、朝日や読売を中心とするメディアは熱狂的な主戦論で連日紙面を埋めて世論を煽る。その世論にじりじりと寄り切られるようにして、政府も開戦へと傾斜していく。

 主戦論そのものが悪いわけではないでしょう。多くの要因を考慮してやむなく開戦に踏み切る政治的判断は、なくもない。でもみんな本当に、自分の頭で考えて、損得を比較考量して冷静な最終判断を行ったのか。著者は、この点に疑念を呈します。多くの主戦論は、ひとたび作り出された物語に、人々が引きずられたがゆえの熱病ではないのか、と。「『表現』は戦争の原因でもあった」(p.38)という言葉は、実に名言。人間は自分が作り出した幻想をすぐに制御できなくなり、主客転倒して自分が操られるようになる。

 「リアル」の世界で戦争が始まってからも、その傾向に歯止めがかかることはありません。新聞は従軍記者や画家を戦地へ派遣しますが、紙面の中心は「戦況報告」ではなく「美談」でした。兵士の家族や遺族たちもまた、悲惨な現実よりはそうした物語を好んだ。「さまざまな傾向とバリエーションを生み出しながら、新聞各紙には連日のように、『美談』が踊ることになる。」(p.60)。同時に文壇においても、戦争小説が一大ブームを迎え、夏目漱石石川啄木といった全く好戦性のうかがえない作家までもが、戦争を賛美する空疎な詩を発表して顰蹙を買う。

 人々がそこまで戦争に浮かれることができたのは、一つには戦時中に極端な物資不足が生じなかった、という事情もあります。私たちが「戦争」と聞いて持つイメージは、太平洋戦争の凄まじい耐乏生活だけど、これも実はメディアによるイメージ操作の賜物で、日露戦争時の国民はずっと余裕のある生活をしていました。もし大衆にも増税や物資の徴発という形でダイレクトに戦争の被害が及んでいたら、彼らもさすがに現実と向かい合う必要に迫られたでしょう。だから当時の国民の感覚としては、今の私たちがサッカーの日本代表の国際試合に一喜一憂する「娯楽」感覚の延長に近かったのかもしれません。

 そして、多くの物語に彩られたこの戦争は、終わった後に一つ、極めつけの奇妙な物語を産み落とすことになります。

 日ユ同祖論。日本人のルーツはユダヤ人であるという、どっからどうみても奇天烈としか形容しようのない学説。いや、学説なんて呼べるものじゃない。実証的根拠なんか一切無しの妄説です。しかしこの幻想は、急速に熱烈な支持者を獲得して、いつのまにか現実を凌ぐリアリティをもって日本国内を跳梁跋扈することになります。自分たちは、列強の一角であるロシアに勝ったのだ。だとすれば、自分たちは僻地の劣等民族などではなく、きっと世界でも特別な地位を占める優秀な民族なのではないか。いやそうでなければならない――そうだ、日本人は実は有色人種ではなく、白人だったのだ!

 幻想がつけこむのは、いつでもこの手の歪んだ選民意識と相場が決まっています(日本での日ユ同祖論というイデオロギーについての優れた分析は、内田樹『私家版・ユダヤ文化論』がお薦め)。

 意外なことに、「日本人は白人です」というヨタ話は、日本国内だけでなく、ヨーロッパにおいても少なからぬ支持者を見出します。白人から見ても、日本がロシアに勝った以上、日本がただの有色人種であっては彼らの白人優位主義にとって不都合極まりなかったからです。日本人が白人だったことが「証明」されれば、あくまで白人内部の序列争いで順にに変動があっただけ。人種を隔てる壁は無傷のまま守られる。よく出来た話ではありませんか。

もし日本人がロシアに勝利したのなら、日本人は白人でなければならなかった。中国が古代以来の豊かな文明を誇っているというなら、その体に流れる血の半分くらいは、白人のものであるべきだ。つまりこの説は、日本に対する好意ではなく、有色人種への差別意識から生まれたものだったのである。(p.199)

 私たちは、幻想=物語なくしては生きてゆけない。しかし、物語は隙あらば私たちを脳髄まで支配するイデオロギーに変化する危険を蔵している。20世紀の戦争はいずれも、こうしたイデオロギー(「自由主義 VS 共産主義」も「民族浄化」もその点では似たようなもの)にいいように暴れさせてきた結果です。今でこそ形骸化が批判されるポストモダニズムという思潮は、全てのイデオロギーを相対化することで、単一のイデオロギーによる害悪を未然に防ぐという意図があったのだと、私は考えています。その発想は悪くなかったと思うけど、この方法も色々弊害があってうまくいっていない。だから、私たち人類は、どうすれば幻想と決着をつけられるのか、その術をまだ見出していないのです。その手段が見出せない限り、イデオロギーに基づくテロも紛争も、解決されることはないでしょう。人類にとって最大の敵は、別にテロリストではないからです。彼らを突き動かす幻想の方こそ、撃たねばならない本当の敵です。