哀しみのモアイ像

 タヒチへ行ったときにガイドブックとして買った『C05 地球の歩き方 タヒチ/イースター 2008〜2009』を読んでいたら、イースター島の歴史があまりに悲惨でかわいそうになった(余談ですが、この本はとっても役に立ちました。少し情報が古いところがあるけど、文字が多くて情報豊富で、飛行機の中で時間を潰すのにも向いてます)。

 ちょっと長いけど、そのまま引用します。

 1805年、アメリカのアザラシ狩猟船は数十人の島民を労働力として連れ去った。しかし、奴隷となることを拒んで全員が海に飛び込んで命を落としたのだ。これが悲劇の始まりだった。
 最大の悲劇は1862年、ペルー船が島の人口のほとんど(1000人とも4000人ともいわれている)の島民を奴隷として連れ去ったことだった。・・・・・・そしてそのほとんどは過酷な労働や、島にはなかった伝染病に倒れていった。約1年後、島に戻れた島民はわずか15人。
 その3年後の1865年、フランス人ボルニエが暴君となって君臨する。・・・・・・1877年、伝染病と虐待により、島の人口はわずか111人にまで激減していた。文化は失われ、ロンゴ・ロンゴを読める人もいなくなってしまった。
 最終的に島の文化を徹底的に破壊したのはキリスト教の伝来だった。ボルニエ暗殺後にやってきたフランス人宣教師が、布教を妨げるとしてロンゴ・ロンゴが記された木片をはじめとする文化財を焼き捨ててしまったのだ。

 今さら分かりきったことだけど、19世紀の欧米って本当にロクなことをしない。その真似をした20世紀の日本もロクなことしなかったけど。ペルーの名前が出てきているのは、当時ペルーでは輸出作物を作るために大規模なプランテーションを拡大していて、その労働力を求めていたからでしょう。中国人のクーリーみたいに、多くは移民で賄ったはずだけど、こんな露骨な奴隷狩りもやっていたのだね(2008/11/30後記:マリア・ルス号事件で知られるマリア・ルス号も、清から苦力をペルーに運ぶ途中に横浜港に停泊していたのだった)。

 イースター島とモアイ像は日本人のほぼ100%に知られているほどの知名度があるけれど、これほど悲惨な帝国主義の犠牲者だったとは知らなかった。