だって人間だもの

 新任の前原国交相が、八ッ場ダム建設中止をめぐって早くも地元および国交省と火花を散らしています。数十年にわたって国政に翻弄されてきた地元住民からの感情的な反発は強いものがありますが、財源問題を抱える民主党としても、公共事業の大幅な削減は実現しないと今後の内政が立ち行かないので、注目度の高い緒戦でミソをつけるわけにもいかない。ここで譲歩すれば「民主、くみし易し」と舐められて他の公共事業見直しなんて到底できなくなる。だから大臣も、住民感情には配慮するとしつつも、建設中止という結論は揺るがないと明言しています。私も、基本路線はこのままで粘り強く説得を続けるしかないと思う。調停に失敗すれば自民党がほくそえむでしょう。

 まあそういう政局のことはともかく、今回重要なポイントは、ダムの建設自体が、中止・継続のどちらの結論に転ぶかではなく、その理由です。何であれプロジェクトというのは、必ず現在を起点にして、それを実行したことで得られる利益がプロジェクトの経費を上回るものでなければやる意味がありません。要は損益計算なんですが、八ッ場ダムのように何十年も長期間に及ぶプロジェクトの場合、途中で状況が変わってダムを作るメリットが消失したり、かえってマイナスになることが明らかになったりします。一度転がりだしたプロジェクトを途中で方向転換するのはけっこう難しい。

 民間企業の場合、大規模プロジェクトの実行中に、何度か継続審査の会議が行われます。そして、コストがあらかじめ決めておいた撤退基準(まともな企業ならこういうラインをちゃんと決めておく)を超えてしまった場合、やむなくプロジェクト中止の判断をします。「このまま戦い続けても失血死するだけだ。今なら腕一本なくすが、命は助かる」という外科的判断を下すわけです。投資などやっている人は損切りという言葉をご存知でしょう。これも同じです。

 でも、公共事業のように明確な撤退基準が決められていない場合、いつまでもダラダラ出血を続ける危険がつきまといます。この危険は、同一政党による長期政権が続く場合には特に高いものになります(内心多くの政治家が「この政策もうやめたほうがいいと思うんだけど、色々なしがらみがあってやめられない」と思っている政策を見直せるという点でも、定期的な政権交代には意味がある)。そういう場合、プロジェクト継続の根拠として非常に頻繁に持ち出されるのが「もう多額の投資を行ってしまったので、いまさら引き返せない」という心理的根拠です。これはサンクコストの呪縛と言って、人間誰もが素朴に持つ感情ではあるのですが、しかし同時に、たとえ継続するにせよ、この理由にだけは従ってはならないという、最悪の根拠です。

 なぜそう言えるかというと、過去に費やしたコストの多寡と、未来において得られる効用の多寡との間には、何の関係もないからです(もしそこに因果関係があるなら、迷うことなくプロジェクトに金を注ぎ込みつづければいい)。ある行動を起こすかどうかを判断する起点は、過去ではなく現在を起点に考える必要があります。

 それでも、私たちにとってこの心理的呪縛から逃れることは非常に難しく、「だってもうお金使っちゃったし、元とれるまでは続けないと・・・」という負けのこんだギャンブラーみたいな言葉がどうしても口をついてしまいます。その理由は、投資を続けている限り、最終的な損失額が確定しないので、何となくコストを回収できそうな幻想に遊べるからです。この心理状態から自力で抜け出すのは麻薬を自分で絶つのと同じぐらい難しいので、たいていは冷静な第三者(親とかカミさんとか医者とか)に頬を引っぱたいてもらう必要がある。民間企業においても、プロジェクト推進者と撤退判断者は全く別の人間(そして後者はプロジェクトに利害を持たない人間。多くはリスク審査部門の人員)がやることになっています。そうしないと冷静な判断ができないということを、企業は手痛い経験を繰り返して知っているからです。

 前原大臣および民主党の今回の役回りは、ギャンブルに熱をあげるダメ親父の頬を引っぱたくおかみさんです。憎まれることになるだろうけど、でも仕方ない。政権を取るとは国家規模の憎悪を一身に引き受けることなんだから。好きで与党になったのだから、やってもらうしかない。