豹変しない日本人

 先週、大阪市の橋下市長が、関西電力大飯原発の再稼動を容認する声明を出しました。これまで積極的に脱原発の方針を推し進め、原発の再稼動にも反対してきた橋下氏としては、ほぼ180度の方針転換といってよい内容です。

 長期的な方向性としては脱原発にも合理性はあるものの、直近の電力供給事情を考慮すれば、「机上の論だけではいかない」という橋下氏の判断は現実的なものです。あまりに潔い転換だったので、あるいは、最初からこのあたりの落としどころを狙いつつ、当初から容認の姿勢を見せては電力会社がつけあがるので牽制していただけなのでは? という疑念も浮かぶぐらいですが、これは憶測の域を出ません。

 今回の件もそうですが、橋下市長には、よりよいオプションが出てきたらすぐに旧来の路線を捨てて乗り換える、という柔軟さがあります。それは一面では、一貫性がないという批判も可能な態度ですが、しかし大阪市という巨大なシステムを運営する立場にあることを考えれば、市長として大事なことは、一貫した主張に従って間違えることではなく、無軌道であろうともシステムをクラッシュさせることなく維持することです。橋本市長はよく自分を学者と対比して「非インテリ」を標榜していますが、それはこのような柔軟なプラグマティズムの表明とも受け取ることができます。

 もっとも、このように間違いをすぐに認める、もっといい方法があるならそれに乗り換える、という態度は、昔から責任ある大人の心構えとして重視されてきたものです。すでに易経に「君子は豹変す」という言葉がありますし、孔子も「過ちては改むるに憚ること勿れ」と言っている。とはいえ、そうは言ってもなかなか・・・。人間誰しもプライドがあるので「自分がバカでした。どうもすいません」と素直に頭を下げるのは、(頭がよく有能な人であればあるほど)簡単にはできない。橋下市長の「非インテリ」という自己規定は、そういう心理障壁を下げるための役割も果たしているのかもしれない。

 また、自分の間違いを素直に認めることが難しい理由には、そうした行為を周囲が評価しない、という問題もありそうです。実際、今回の橋下市長の方針転換についても(特に脱原発派からは)「変節」と批判されているし、頻繁に政見を変える政治家は「風見鶏」と揶揄されます。自らの主義主張に頑固一徹な人を「軸がブレない」と評価し、「転向」した人間を一段低く見る傾向は、多くの人が程度に差はあれ心の中に抱えています。最近では、政権を取った政党がマニュフェストを守らないと、理由いかんによらずそれだけで批判されたりしますし、戦後の一時期、日本で共産党が一定の勢力を得たのは、共産主義者が戦前戦中に、投獄されようとも非転向を貫いたことで、人格の高潔さが評価されたからでした(そのような非転向が持つ頑迷さの危険を指摘したのが、最近他界した吉本隆明です)。

 もしかすると、私たちがこのような「変節」や「転向」を忌避する背景には、ある種の人間観、日本人に固有のバイアスが潜んでいるのかもしれません。それは、「人間の賢さにはピークがあって、大人になってからさらに賢くなることはない」という頭打ち人間観です。The Economist の記事「私たちは歳を取るほど賢くなるか?」では、日米の成人に対して一種の知性テストを行って、年齢によって賢さに差が出るかどうかを比較する研究が紹介されていました。結論は、次の二つです:

  • 若いときは、日本人の方がアメリカ人よりも賢い。
  • アメリカ人は年齢とともに賢くなるが、日本人はあまり変わらない。そのため人生の後半ではアメリカ人が逆転する。


 この結論は、これまでも日本人とアメリカ人の「成長曲線」について巷で言われてきたことと一致します。日本では、大学受験が厳しいため、子どもの頃にかなり勉強します。でもいったん大学に入ってしまうとそこはレジャーランドだし、大学院に進むと就職先がないということで学部で卒業する人が多いし、いったん卒業したらもう大学に戻って再度勉強する人もほとんどいません(大学への入学者に占める社会人の割合は、OECD 平均が 21.3% に対し、日本は 1.8% )。そのようなわけで、日本人の知的能力については、以前から「18歳限界説」が唱えられていました。ユニクロのように大学卒業していなくても内定を出すという採用方針を打ち出す企業も、この説を支持していると言えるでしょう。

 一方、アメリカの場合は、高校までの勉強はそれほど厳しくなく、大学の入試も(一部エリート校を除けば)ゆるいと言われています。その代わり、大学でも勉強をサボればすぐに退学になってしまうし、社会人になった後でもキャリアアップのために大学院へ戻って勉強する人も少なくない。そのようなわけで、若い頃はアメリカ人より上を行っていた日本人は、何十年後かにはアメリカ人に負けてしまう・・・こう書くとなんだかウサギとカメの話みたいですが、私たちが政治家や学者の食言を嫌う心理には、自分たちがカメではなくウサギなのだと、心の奥では知っているからなのかもしれません。

幸せになる働き方:御手洗瑞子『ブータン、これでいいのだ』

 本書は、コンサルタントである著者が、約1年間、ブータン政府職員として働いた経験をもとに書かれた見聞記です。実際に住んで現地の人と生活をともにした人ならではの生き生きとした描写が、ブータンの人々への暖かい共感とあいまって楽しみながらブータンについて色々な方向から知ることができます。

 ブータンは、国民の幸福度を高めることを目標とするユニークな国策(GNH)が先進国の間で有名になり、日本でも昨年、国王夫妻が訪れたことなどから知名度が高まっている国です。閉塞感に苦しむ最近の日本と対比して、ブータンを理想的な国として思い描く人も少なくない。

 私も、ブータンには興味を持っていました。それは、「ブータンの人は仕事についてどう思っているのだろう?」ということが気になっていたからです。日本も、世界的に見れば、まあそんなに悪い国ではありません。街は清潔で犯罪率は低く、インフラは整備されており医療水準も高い。これで仕事さえもっと楽なら、日本人も幸せになれるのにな、と思っている日本人は多いと思います。日本の労働時間の長さと生産性の低さは、先進国の中でも際立っており。そのことは、労働者の仕事に対する満足度の低さの一因にもなっている。不況の煽りをまともに食らった若年層の間では、人権を無視して労働者を酷使する「ブラック企業」への怨嗟は、共通了解の事項となっています。

 まあそういう特殊日本的な事情はおくとしても、仕事というのは、多くの人が人生の大半を費やす活動です。だから、仕事から充実感を得られるかどうかは、幸福度とも強く結びついているはずです。ならば、国民が口を揃えて「幸せだ」というブータンの人は、幸せな働き方をしているに違いない。

 そんな好奇心をもって本書を読んだのですが……うーむそうですか。そういうことでしたか。

 まず、「ブータンの人は仕事をどう思っているか?」という私の疑問への答えは、書いてありました。著者もブータンの労働状況について本格的な調査をしているわけではないのですが、それでも興味深い報告をしてくれています。誤解を承知で単純化してしまうと、ブータン人の仕事に対する態度は、

 自分の好きな仕事しかしない。

これに尽きるようです(著者がブータン人に仕事について訊ねた時、答えは大抵「ブータン人はプライドが高いから、ブルーカラーの仕事はしない」(p.155)というものだったそうです)。このせいで、ブータンの失業率は高く、20代前半では 20% を超えます。また、普通に考えて世の中、そんな都合よくホワイトカラーの仕事だけで回るか? 回るわけがない。当然、ブータンにも汚れ仕事があります。ではそういう仕事は誰がやるのか。この答えが、ブータン人の意外なドライさを象徴するのですが、それはインド人なのです。

 近年、ブータンでは、特に首都であるティンプーを中心に、アパートやホテルの建設ラッシュになっています。いつも見かける建設工事。そこをよく見ると、竹でできた不安定な足場に上り、十分な安全設備もない中でコンクリートを流し込み、過酷な作業をしているのはほとんどインド人です。
 ……オフィスやトイレの掃除をしているのも、たいていインド人です。ある時、ブータンの友人たちが公衆トイレの汚さに文句を言っていました。そこで私は「そもそもなぜ、みんなあんなに汚く使うの? 汚したら、自分で掃除したりしないの?」と聞いてみました。すると、みんな気まずそうに沈黙してしまいました。少し間が空いた後、一人がぼそっとつぶやいた言葉は「だってそれは、インド人労働者の仕事だから……」でした。(p.155)

 ブータンとインドは隣国ですが、一人当たり GDP で比較するとインドの方が貧しいため、ブータンにはインド人の出稼ぎ労働者が大勢来ているのです。ブータン人は、彼らに 3K 仕事を押し付けた犠牲の上に、見栄えの良い仕事だけをチョイスして「ボクは幸せだなあ」と言っているという、一種の差別の構造が存在しているわけです。冷静な著者は、そういうブータンに都合の悪い事実もきちんと観察している。

 日本の場合、言葉の壁もあって、外国人労働者労働市場においてそれほど大きな比率を占めません。代わりに日本では、よく知られているように、正規・非正規という区別によって日本人内部で同じような階層分化が生じています。日本も、外国人労働者をもっと呼び込んで彼らに 3K 労働を押し付けたら、大手を振って「幸せです」と言えるようになるのかもしれない。でもそれは、自分たちと「彼ら」はもう別の存在で、共感や同情を持つ余地はないのだ、と認めることでもあります。

 ブータンの人々のインド人への接し方を見ていて、違和感を抱くことがあります。それは、ブータンの人たちがインド人に対して、ほとんど「思いやり」の感情を見せないことです。
 ブータンの人たちは慈悲深く、家族や友人はもちろん、たとえ知らない人であっても困っている人には積極的に手を差し伸べてくれるところがあります。 ……しかし、例えば、建設現場の横に広がるインド人労働者の簡素な住居を見ても、炎天下に十分な道具もなく道路工事をしているインド人の女性や子どもを見ても、一緒にいるブータン人は、いつも何も感じていないように思えます。目に入っていないのかもしれません。(p.156)

 こうしたブータン人を、インド人側から見れば、彼らの GNH というスローガンはただの偽善、よく言って先進国向けの観光的リップサービスにしか見えないかもしれない。幸せな働き方などやはり簡単に見つかるものではなさそうです。

2012/05/07追記:
 このエントリを読んで、「ブータン人がインド人に冷たくて幻滅した」という感想を持った方もいるようなので、少しブータンをフォローしておきます。というのも、ブータン側から見ると、インド(およびインド人)も十分に尊大なところがあるからです。国力で比べれば、人口 12 億のインドと 70 万人のブータンでは、そもそも相手になりません。かつ、ブータンはその財政を少なからずインドの援助に頼っています(2008年の国家歳入の実に 21% がインドからの援助)。インド人の中には、ブータンというのは自分たちが食わせてやっている「属国」のように思っているのではないか、という態度を取る人間がいることは、本書でも指摘されています。
 そのような理由もあり、ブータン人はインド人に複雑な感情を抱いているようです。少なくとも、親しみを持てる隣人とは思っていないようです。自分たちが優位に立てる状況においては、インド人をこき使ってやろうと思っても ―― ブータン人が本当にそう思っているかは分かりませんが ―― それは、人間の感情の動きとしてそれほど不思議なものではないと思います。

 もちろん、そのことと、誰かが貧乏くじを引かねばならない労働市場の構造問題とは、また別問題ではあるのですが。

 ちなみに、本書のもとになった文章を、著者の日経BPの連載で読むことができます。また、ブータンにおける労働市場の二重構造については、『Economist』でも取り上げられています。

頑張れ共和党:『スーパーチューズデー』

 評価:☆☆☆★★

 映画の出来としては、特に見るべきもののない凡作です。もの凄くひどいわけでもないのですが、わざわざ映画館に見に行くほどのものではありません。金曜ロードショーでやっていたら見てもいい、というレベル。というわけで評価は★二つ。(ちなみに★一つは、金曜ロードショーでやっていても見る価値のないレベル)。

 プロットとしては、民主党の大統領候補を争う予備選の内幕暴露物ですが、これが全く迫力に欠ける。世間知らずの学生ならともかく、いい大人なら「まあその程度のことは、選挙なら当然あるよね」という程度の駆け引きしか出てこない。大統領候補(ジョージ・くるくるクルーニー)にも人格的魅力がないので、彼がシモのユルさを発揮して窮地に陥っても、些かも応援する気が起きない(だいたい、「インターンとやっちゃう大統領」という荒業は、本職のクリントンがすでにやってしまっているので、いまさら物語で描いても意外性がない)。誰彼なしにベッドインするヒロインの女の子は、最後だけ突然いい子ちゃんになってしまい、キャラクター造形が破綻している。モニカ・ルインスキーみたいに手記を出版するくらいのビッチの方が物語りが盛り上がったと思う。

 ・・・というように、クルーニーの監督としてのダメさが分かるのが、この映画の唯一の収穫というぐらい、見るところがない。ただ、この映画単独ではなく、他の「選挙物」の作品と並べて考えると、またちょっと違った面白さも見えてきます。

 本作の主人公たちは、民主党陣営です。共和党は影すら出てきません。せいぜい会話の中で「共和党の候補はワールドクラスのバカ揃いだ」とこき下ろされる程度。これはこの映画に限った話ではなく、大体、米国の政治とか選挙を扱う物語の主人公は民主党に属しています。『24』のパーマー大統領や『ホワイトハウス』のバートレット大統領も民主党だし、共和党は、出てきたとしても、バカな敵役とか弱者切捨てを主張する人でなし、という扱いになる。

 この理由は、三つ考えられます。一つ目は、共和党が実際にピーの集まりという側面を持っているので、ヒューマンドラマの主人公には不適格なことです。ブッシュジュニアを主人公にした映画を作れと言われても、ご当人にあまりリスペクトできる資質がないのでモデルにしにくい。サラ・ペイリンを主人公にシリアスドラマを作れと言われたら、ハリウッドの敏腕プロデューサーでも頭を抱えるでしょう。

 二つ目は、一つ目とも絡むのですが、共和党はいつでも中傷や裏取引だらけの泥仕合をやっているイメージが定着していて、今さら内幕を暴露したところで、視聴者からしてみたら「いや、全部知ってるから」という内容にしかならない。本作みたいな映画は、多少でもクリーンな「いいモン」のイメージを持つ民主党でないと成立しない。

 そして三つ目は、ハリウッドやテレビ業界が、ことあるごとに表現の自由を規制しようとする共和党を嫌いなことです。共和党の背後にはキリスト教福音派がバックについているので、暴力やセックスのメディア表現の規制に積極的です。また、共和党の支持層には人種差別的な思想の持ち主も多く、ユダヤ系の多いハリウッドとはその点でもそりが合わない。そんなわけで、ハリウッドは民主党贔屓です。民主党支持を公言する映画人は多いし、『ホワイトハウス』でも、ハリウッドが民主党の大口スポンサーであることを描くエピソードがあった。

 でも私が思うに、この民主党=いいモン、共和党=わるモンというメディアの作り上げた構図はマンネリ化している。最近は共和党の御用テレビ局である FOX がヨイショ番組を作っていますが、その FOX にして、『24』を作るときに大統領の所属を民主党にせざるをえなかった。そうではない。いま求められているのは、共和党を主人公にした政治ドラマです。

 本作も、思い切って舞台を共和党予備選にしたならば、もっと面白い映画に仕上がっていたはずです。対立候補がケイマン諸島に隠し口座を持っているとか、娘が中絶手術を受けたというデマを流しあい、討論番組では候補者が「お前は社会主義者だ!」とか「移民が白人の職を奪っている!」とがなりあう。うおおお考えただけでもワクワクするじゃありませんか。そういう映画だったら、金払ってでも見てみたい。

人はみな、ナチュラルボーン・キラー

 New York Times の記事より。("When the Good Do Bad")

 今月 11 日、アフガニスタンで民間人 16 人を米兵が銃を乱射して殺害した事件は、世界中に衝撃を与えました。単に痛ましい事件というにとどまらず、タリバンが米国との和平交渉を打ち切ると宣言するほか、カルザイ大統領も米軍を追い出しにかかるなど、早くも政治的影響まで与えています。現在真っ最中の米国大統領選挙への影響も取りざたされています。

 このような無差別テロや大量殺人が起きると、人々は驚き、そして口々にこう問います。「一体何が彼/彼女を殺人に駆り立てたのだろうか?」と。「以前は、そんなことをするような人じゃなかったのに」。

 日本でも、2008 年に秋葉原通り魔事件(7 人が死亡)が起きたときは、犯人である加藤智大の「動機」がマスメディアによって様々に推測されました。いわく、派遣社員としての不安定な雇用形態のせいだ。いわく、職場でのいじめがあったからだ。いわく、母親の育て方が悪かったせいだ。中には、彼女がいなかったからだ、なんていう「非リア」説まで登場するほどでした。

 ディヴィッド・ブルックスの見方は、これとは全く異なります。人はなぜ人を殺すのか? それは、人間が生まれつきの殺人者だからだ

殺人衝動が起こるのは、ビデオゲームのやりすぎが原因ではない。人間が殺人衝動を持っているのは、私たちが生き残りと繁栄をかけて、他者を殺してきた生物の子孫だからだ。私たちはみな、ナチュラルボーン・キラーであり、それゆえ真の問題は、「何が人間を殺人に駆り立てるのか」ではない。「何が人間を殺人から押しとどめているか」である。

 この人間観はあまりに悲観的すぎる、と思うでしょう。特に性善説と童心主義の強い日本では、こうした性悪説は嫌われる傾向がある。しかし、最近の多くの研究には、この見方を支持するものが多い。学生への聞き取り調査によれば、男性の 9 割と女性の 8 割が「誰かを殺したいと思ったことがある」と答えているし、最近の考古学は、旧石器時代には死者の多くが殺人によって殺されているという事実を明らかにしている。昔の人類は、現代以上に殺し合いばかりしていた。人類は、長い時間をかけて徐々にその殺人衝動を抑える方法を学び、平和的になっていったのです。

 「それゆえ」とブルックスはいいます。「私たちは、何が人を殺人から遠ざけるのかを知らなければならない」。心理学の研究によれば、殺人者となる人間は、しばしば共感と抑制を弱める環境で生活しているし、シリアル・キラーにはプライドが高いにもかかわらず、世間からは正当な評価を受けられない人間が多い(そして、世間を「見返す」ために殺人へ走る)。米国という国は、不幸なことにこうした殺人事件のサンプルが豊富です。それゆえ、実証的な犯罪学には、宝の山なのだ、という皮肉な見方もできる。

 ともあれ、現実を直視して、人間性への深い洞察をもとに解を模索するブルックスの態度には、米国のリベラルの強さを見る思いです。日本で同様の事件が起きると、まず政治家が「遺憾の意」を表明し、次にマスコミが犯人の過去を暴き立て、犯人がいかに不幸な生い立ちを持っていたかを「発見」し、我々凡人には覗くことすらできない「心の闇」が原因だったのだと「結論」を出します。最後に 2ch で犯人が英雄扱いされて世間がしらけて忘れ去る。

 でも、事実はそうではない。私たちは、本当なら二十歳ぐらいまでに一度くらい、アフガンの米兵と同じように、銃を乱射したりナイフを振り回して人を殺していたはずだったのです。ちょうど誰もが、一度ぐらいタバコ吸ったり酒を飲んだり万引きしたりといった軽犯罪を犯すように。そうなっていないのは、人類の発明した数々の装置 ―― 法、教育、共同体、そして強力すぎる核兵器 ―― によって、辛うじて人を殺さずに済んだだけだったのです。21 世紀の社会科学は、私たちにそのような悲観的な人間理解から出発せよと教えている。

原罪の概念は、キリスト教神学において唯一実証可能な教義である。

初代アンドロイド:ヴィリエ・ド・リラダン『未来のイヴ』


 理想の女を追い求めて破れる男、というのは、古今東西、文学に繰り返し現れるテーマです。ビッグネームだけを追ってみても、古くは『源氏』、近代には『ファウスト』という古典を挙げることができます。前者の主人公は幼女誘拐&監禁飼育という現代のアダルトゲームもかくやというロリコン趣味を遺憾なく発揮するし、後者も悪魔の手を借りて若い娘を妊娠させた挙句、死刑台に送るという鬼畜ぶりが素敵です。森鴎外の『舞姫』なども、この類型に属する作品と考えてよいでしょう。世の名作には「男の身勝手さ爆発もの」が意外に多い。

 科学技術が急速に発展しはじめる 19 世紀後半になると、生身の女を追いかけては幻滅する負のサイクルに懲りた男たちは、科学の力によって理想の女を作り出す作戦にシフトします。美しい肉体と清らかな心を持ち、決して老いることのない女神 ―― アンドロイド文学の誕生です。本書が史上初めて用いた「アンドロイド」という言葉は、もともとが「女性の人造人間」という意味なのです(だから、アンドロイド携帯を擬人化した「花のアンドロイド学園」の解釈は「マジキチ」とけなされるようなものではなく、むしろ正統的です)。

 本書は、イギリスの美貌の青年貴族エワルド君が、当代随一の発明家エジソンの家に悩み相談にやってくるところから始まります。彼は、自殺を考えるぐらい思いつめているのですが、その悩みの種というのが、付き合っている美人の彼女(アリシヤ)のことです。まあ色々ぐだぐだと抜かすのですが、今風に要約すると「彼女がビッチで困る」ということです。

 といっても、現代の我々と当時の貴族のお坊ちゃんとの感覚は大分ちがいます。エワルド君は、彼女の心がいかに汚れていて浅ましいかを口をきわめて罵倒するのですが、別に浮気性のヤリマンだとか浪費癖があるとか、そういうレベルではありません。自分とつきあい始めたときすでに処女じゃなかったとか(そう、エワルド君は「処女厨」です、中古女が大嫌いです)、教養がなくて美術館に連れて行ってもつまらなそうにするとか、せいぜいその程度です。

 むしろこのアリシヤというのが、生まれは貴族の出なのですが、婚約者との恋愛がうまくいかなくて家にいずらくなって、家を出て女優として一人食い扶持を稼いでいこうとする、かなり自立心旺盛な才女です。でもそういう進歩的な女性を、男は嫌いなんですね。よく日本男性は自立した大人の女性が嫌いだと言われますが、ヨーロッパの貴族もそうなんです。男は、バカでかわいい女の子が大好き。

頭の単純さというものを全く持合せていない女などは、怪物以外の何物でしょうか。≪才女≫と呼ばれるあの厭わしい存在ほど、人の心を暗くし世を毒するものは他にありますまい。

 女性から見れば「お前のくだらない女性蔑視に付き合ってられるか」という感じのエワルド君ですが、彼はマジです。エジソンの家を出たら自殺すると思いつめています。その姿にいたく同情したエジソンは、彼に、あと三週間だけ生きなさい、と言います。そうしたら、私があなたに生きる希望を与えてみせます、と。

21 日後の同じ時刻、この場所に、ミス・アリシヤ・クラリーは、面目を一新し、世にも魅惑的な≪伴侶≫となり、世にも尊い精神的気品をそなえているばかりか、一種の不滅性まで身にまとって、あなたの前に姿を現すことになるのです。――要するに、目の眩むほど美しいあの愚劣な女が、もはや女ではなくなって、天使になるのです。情婦ではなくなって、恋人になるのです。「現実」ではなくなって、「理想」になるのです。

 エジソンもなかなか言うでしょう。現実のエジソンがどういう女性観の持ち主だったかは知りませんが、作中の彼は筋金入りの女嫌いです。彼は、友人の人品卑しからぬ立派な紳士が、外見だけが取りえのしょうもない女に引っかかって身を持ち崩してしまった苦い経験から、恋を「病気だ」と言い切ります。その病気の治療のために生み出したのが、世界初のアンドロイド「ハダリー」です。古代ペルシア語で「理想」という意味だそうです。
 エワルド君は、アンドロイドなんて所詮、心のない肉人形だと思って、エジソンのアイデアに懐疑的ですが、エジソンは自らの作品の出来栄えに自信満々です。

失礼ですが、≪誰かがこの肉体からこの魂を取除いてくれないかなあ≫とお叫びになったときの御希望にこれこそぴたりと一致するわけではありませんか。あなたの恋人のミス・アリシヤと全く同一で、その恋人があなたを悩ましているらしい意識だけを取除いた、そういう一つの亡霊を、あなたは呼び求められました。そこで、ハダリーがあなたのお呼びかけに応じてやって参りました。それだけのことです。

 やがてエワルド君も、ハダリーの示す気品、繊細な気遣いといった「女らしさ」に感銘を受けて、彼女を生涯の伴侶とする決意をします。なにしろエワルド君は、アリシヤとこっそり入れ替わったハダリーに気付かなかったくらいなのです。彼は、贋物の肉体と贋物の知性と贋物の感情しか持たないハダリーを抱きしめて、本物の愛情を注ぐことを高らかに宣言します。二人が熱い抱擁を交わすシーンには、人を感動させる迫力があります。ハダリーの側も、生命を持たぬ人形でありながら、人間を超えた感情の奔流を示すこのシーンは、圧巻です。

わたくしの失うすべてのものをあなたは失っておしまいになる。わたくしのことを忘れようとして御覧遊ばせ、いいえ不可能でございます。あなたがわたくしを御覧になるような眼で「人造人間」を眺めた人は、自分の中の女性というものを殺してしまったのでございます。何故かと申すに、陵辱された「理想」は容赦致しませんし、およそ神に戯れる者は誰一人神罰を免れ得ないのですもの!

 こんな魂の叫びを美しい女性から聞かされたら、エワルド君でなくても、たとえそれが人造人間であろうと抱きしめずにいられる男は、確かに少ないかもしれない。この作品以降、男たちは生身の人間を追うことをやめ、アンドロイドに夢(ここでは「身勝手な欲望」と同義)を託すことを覚えます。特に SF のジャンルでは『ブレードランナー』をはじめ、アンドロイドとの恋を描く作品が数多く出現することになります。最近の初音ミクボーカロイド)の流行も、その流れを受け継いでいます。ある女性研究者は「日本のヒューマノイド開発の対象は初音ミクや美少女ばかりで<都合のいい女>を競って開発するような環境に馴染めない」という感想を漏らしたそうですが、その印象は本質を捉えているのです。男性は歴史上いつでも女性に「都合のいい女」という幻影を追い求めてきました。バカみたいだと思うでしょう? でも、男も少しは賢くなったんです。生身の女性を追っても傷つくだけであることを学習するぐらいには。

 私たちはいま、機械に幻影を追って疾走している。手は、もう少しで届きそうだ。

幻がなければ、一切は消滅します。それは避けられません。幻、それは光明です!

 

新著が出ます:『達人に学ぶDB設計 徹底指南書』

 3/16 に新著が出ます。タイトルは『達人に学ぶDB設計 徹底指南書』。名前からピンと来た方もいるかもしれませんが、『達人に学ぶ SQL徹底指南書』の続編に当たります。本の装丁も同じ轟木亜紀子さんにお願いしたので、シリーズものっぽく仕上がっています(写真は文末の Amazon へのリンク参照)。

 本書も、前回の SQL 編と同様、初級者から中級者へステップアップするためのコツやノウハウを詰め込んだ盛りだくさんな内容になっています。ただし、正規化や ER 図の描き方や、インデックスの仕組みやバックアップといった論理・物理両面における設計の基礎についてもカバーしているので、初級者であっても置いてけぼりにすることのないよう配慮したつもりです。

 ただ、DB 設計というのは非常に広範囲な内容を含むので、イメージが湧かない、という方もいるでしょう。そこで以下に、本書の章構成と前書きを示しますので、購入するかどうか、判断の指針にしていただければと思います。

 
【章構成】

  1. データベースを制する者はシステムを制す
  2. 論理設計と物理設計
  3. 論理設計と正規化 〜なぜテーブルは分割する必要があるのか?〜
  4. ER図 〜複数のテーブルの関係を表現する〜
  5. 論理設計とパフォーマンス 〜正規化の欠点と非正規化〜
  6. データベースとパフォーマンス
  7. 論理設計のバッドノウハウ
  8. 論理設計のグレーノウハウ
  9. 一歩進んだ論理設計 〜SQL木構造を扱う〜

 
 本書の「はじめに」は以下の通り。

*  *  *

 本書は、リレーショナルデータベースにおける設計についての書籍です。「データベース設計」と一口に言っても、その内容は多岐にわたります。このジャンルの書籍は、大きく以下の3種類に分類できます。

  1. 論理設計
  2. 物理設計
  3. 実装設計

 1 は、いわゆる正規化やER図といった道具を使ったデータのモデル設計です。一般的に「データベース設計」と聞いて、多くの人が思い浮かべる分野がこれかもしれません。
 2 は、サーバーやストレージといった物理的なハードウェアレベルの設計です。データベースも究極的にはこうしたハードウェアの上で動作するため、物理設計も重要です。
 3 は、特定のデータベース製品を前提に、具体的な構築の手順や方法を解説したものです。データベース製品によってアーキテクチャに違いがあるため、実際にシステムを構築する段には、製品に寄りそって考える必要があります。「○○で作るデータベースサーバー」とか「○○実践パフォーマンスチューニング」といったタイトルの本(○○はデータベース製品)は、このカテゴリに属します。

 上記の分類に従えば、本書がカバーするのは、1 論理設計と2 物理設計です。書籍によっては、1 と2 を分離して、どちらか一方にフォーカスするものも珍しくありません。ですが、本書ではこの両者を同時に考えていくスタイルを取っています。章立ての便宜として、論理設計と物理設計に分ける構成にはなっていますが、片方が主題の章にも必ずもう一方が顔を出してきます。

 その理由は、論理と物理、二つのレベルの設計を同時に考えたほうが理解しやすいから――ではありません。むしろ、片方を学ぶ間はもう一方のことは忘れたほうがわかりやすいぐらいです。本書が両者を同時に考える理由は、この二つのレベルの間に、強いトレードオフの関係が成立しているからです。

 トレードオフ。日本語に訳すと「あちらを立てればこちらが立たず」。すなわち、論理設計をきれいに行なおうとすると物理設計が犠牲になり、物理設計を優先すると論理設計が犠牲になる。

 実のところ、トレードオフは別にデータベース設計だけに使われる言葉ではなく、システム開発全般、ひいては仕事からプライベートから、私たちの生活すべてにおいて当てはまる原理です。米国の経済学者マンキューは次のように言っています。

 意思決定に関する最初の原理は、「無料の昼食(フリーランチ)といったものはどこにもない」ということわざに言い尽くされている。自分の好きな何かを得るためには、たいてい別の何かを手放さなければならない。意思決定は、一つの目標と別の目標のトレードオフを必要とするのである。

 みなさんは本書を通じて、望ましい論理設計とは何か、望ましい物理設計とは何かを学んでいくことになります。しかし本書の目的は、単にそれを理解してもらうだけにはとどまりません。さらに、望ましい論理設計を達成しようとするとき、犠牲になるものは何か、望ましい物理設計を諦めなければならないのは、どのような理由によるのか、といったトレードオフを学びます。

 エンジニアの本当の仕事は、それを知った後に始まるのです。

 それでは、始めましょう!

*  *  *

 
 本書が、現場の最前線で日々様々なトレードオフに頭を悩ませている DB エンジニアの皆様のお役に立てば幸いです。

 3/17追記サンプルコード正誤表がアップされました。

教父たちの遺産:八木雄二『天使はなぜ堕落するのか』

評価:★★★★★

 哲学の分かりにくさには、大きく二つの種類があります。一つが、純粋に論理的な難しさ。特に強い論理性への志向を持つ現代の分析哲学などを学ぶと、論理学や数学と類似の難しさを感じます。

 哲学のもう一つの難しさは、もう少し根が深く微妙なものです。それはしばしば「一体何がテーマなのか分からない」という困惑の形を取って現れます。実際、哲学を勉強してみようかな、と思って世評の高い哲学書を読んでみると、何の断りもなく細密な議論が始まって数ページでノックアウトされることが、よく起きます。典型的には、大学一年生がカントの『純粋理性批判』やハイデガーの『存在と時間』を読んで返り討ちにあう、というパターンです。

 そういう場合は「自分とは波長が合わなかったな」と割り切って他の本を当たる、というのも現実的な対処の一つです。哲学にも色々な分野があるし、哲学者も星の数ほどいます。中には説明の上手い人もいれば下手な人もいるし、今となってはどうでもいい問題にこだわっている人もいる。そういうのに付き合うのは、時間の無駄です。

 しかし、第二の難しさが生じる理由には、単に「合う合わない」だけではなく、もっと重要なものがあります。それは、読む側が書き手の置かれた文脈や背景を知らないことによって起こる、一種のミスコミュニケーションによるものです。哲学の名著にもよくあるのですが、論敵への反論や、投げかけられた疑問への返答として書かれていることがあります。しかし、そういう「前フリ」が本文に明示されていないので、その「常識」を共有しない後世の私たちには、問題文を読まずに解答だけ読むような違和感が感じられるのです(たとえば、前掲の『純粋理性批判』はヒュームの懐疑論への回答だし、『存在と時間』も師匠フッサール現象学を乗り越えようとする意図で書かれています)。

 そういう場合の分かりにくさを克服するには、我慢して読み進めるよりも、前提となる文脈を説明した解説書を読むのが助けになります。何百年も前に生きていた人たちと私たちでは、ライフスタイルやそこから導き出される常識的な物の考え方は違って当然ですから、まずはギャップを埋めてやる前準備が必要になるのです。

 本書は、そのような哲学者と私たちの溝を埋めることを目的に書かれた解説書です。しかも、相手にするのは中世ヨーロッパのスコラ哲学者。千年以上前の人々なので、時間的にも離れていますし、それ以上に、宗教が大きな壁となって立ちはだかる。非キリスト教徒にとって、キリスト教というのは本当に分かりにくい。そのアイガー北壁のような絶壁を、数十年間よじ登ってきた著者が、クライミングのコツを教えてくれるというのですから、4800 円は安い。安すぎる。ステマじゃないですって。本当ですよ。

 本書はスコラ哲学そのもののというより、その背景となる歴史や宗教について重点を置いた解説書です。もちろん、アンセルムス、アクィナス、スコトゥスなどスコラ哲学のビッグネームたちの哲学については、つながりを理解するために必要な最小限の解説は加えられていますが、それほど一人について細かく立ち入ることはしません。また、イスラム哲学についても一章が割かれているのみなので、そうした点が知りたい人は、別の本を当たる必要があります。
 私が本書を読んで驚いたのは、私たちの馴染み深い(そして一般的にはスコラ哲学には批判的と考えられている)近代の哲学者たちが、非常に多くをスコラ哲学から受け継いでいるという事実でした。デカルトライプニッツ、ベーコンといった近代を用意した哲学者の考えは、私たちの常識の土台を形作っています。例えば唯物論機械的自然観を、私たちの多くが無意識のうちに前提している。そして近代の哲学者は、そうした考えは自分たちが生み出した革命的アイデアなのだ、スコラ哲学は乗り越えられたのだ、と主張します。それは一部において間違いではないのですが、しかし実は、彼らはスコラ哲学から、実に多くの遺産を、こっそり相続していたのです。以下、私にとって「目から鱗」だったポイントを挙げてみます:

 

  • カントの自由意志論

 カントの自由意志の概念を最初に知る人は、異様な感慨に捕われます。「自由意志」と聞くと、普通私たちは、自分の欲求の赴くままに行動することを連想します。腹が減ったら飯を食い、眠くなったら眠り、ムラムラしたらセックルセックル。そういうフリーダムな衝動に突き動かされて生きる人を、私たちは「あの人自由だねー」と言います。しかし、カントはこのような生き様を自由とは見なしません。
 というのも、彼に言わせれば、このような動物的人間は、本能の命令に従っているだけで、そこには意志の介在がないからです。遺伝子によってコーディングされたプログラムに従って動く機械に過ぎない。現代的な語彙を使って表現するなら、そういう言い方もできるでしょう。
 では、カントの言う自由とは何か。それは、自分で決めたルール(定言命法)に従って生きることです。例えば「お腹が空いても夜ご飯までは間食しない」とか「オナニーは週一回」とかのルールを自分で決めてそれに従う(この行動をカントは「自律」と呼びます)。衝動をぐっとこらえ、遺伝子の命令に打ち勝つことの出来る人。それこそが真に自由な人である・・・。これは、倫理学では反功利主義陣営の理論的支柱です。昨年「白熱教室」でブレイクしたサンデルも、カントの倫理学を重視している。

 しかし、どうでしょう。「ヘンなこと言う人だなあ」と思わなかったでしょうか。私は、最初にカントの自由意志論を知った時からずっと奇妙だという印象を拭えませんでした。しかし本書を読んで驚きました。これと全く同じことを、カントより数百年前にアンセルムスが言っていたのです。

人は、たとえば耕作し、あるいは労働し、彼が有益と判断した生命と健康を守るものを獲得しようとする時、有益生のために何かを意志している。しかし、たとえば苦労して学び、正しく、すなわち、義に従って生きることを知ろうとする意志する場合、正直のために意志している。『自由選択と予知』(本書 p.222 より孫引き)

 この箇所を読んだ時、おいおい、カントの言ってることってアンセルムスのパクリじゃねえか! と一人で突っ込みをいれてしまいました。アンセルムスはここで、自由を神へ向かう態度、つまり正義の概念と結びつけて語っています。農民や労働者が働くのは「利益」のためであり、それは神ではなく、人間のための行いである(がゆえに不正義である)。アンセルムスは功利主義を認めません。利益を度外視して、常に神のために祈り勉学する修道士だけが、神へ向かっている(ゆえに正義である)。どうでしょうこのかぐわしいエリート臭は。当時にツイッターがあってこんなこと呟いたら、「お前が毎日食べるパンは誰が作ってると思ってるんだよ」という批判的 RT で炎上間違いなしです。しかし騎士道精神溢れるアンセルムス先生ならば「賎業に従事する社畜どもが小癪な! 破門してくれるわ!」と応戦して盛り上げてくれるに違いありません。ああ、見てみたかった。

 話を戻すと、カントはこのいかにも高飛車なエリート倫理から、宗教色を脱色して、普遍的に使える体系に改変した、というのが、あの奇妙な自由意志論の正体だったのです。カントも最初からそう言ってくれれば、私も迷わなかったのに。

 フッサール現象学の重要な方法論に、判断停止(エポケー)があります。これは、「当たり前に見える物事や言葉も、いったんその真理性を認めずに吟味の対象とする」という態度です。いまテーブルの上にコーヒーカップが見える。しかし、そこに本当にコーヒーカップがあると、本当に断言できるだろうか。それは幻覚かもしれないし、夢を見ているかもしれない。従って、「コーヒーカップがある」と断言することは控えよう、という懐疑的態度です。「カッコに入れる」という言い方もします。

 このエポケーという言葉は古代ギリシア語であることからも分かるように、「判断停止」の方法論そのものは、古代ギリシア懐疑主義派の哲学者たちも使っていた由緒正しい方法論です。しかし、これを哲学上の方法論として確立したのは、中世キリスト教の教父たちでした。彼らは、一度神の実在を「カッコに入れて」、本当に実在するかどうかを議論する、という道を選択したからです。

 これは少し説明を要する態度です。本来、すでに神を信じ、その実在を信じる者にとって、いまさら神の実在を証明するなどという行為は、蛇足以外のなにものでもありません。だから、敬けんなキリスト教徒であるほど、神の実在をカッコに入れる必要など感じないはずです。それにもかかわらず教父たちがエポケーを行ったのは、中世において勢力を得はじめた哲学徒の一派との対決を迫られたからです。その一派が、唯名論でした。

 唯名論は、言葉に対応する普遍的概念は存在しないと見なす立場で、神の実在にも懐疑的です。言葉による論証から導かれる結論しか受け入れない彼らは、いかに教父たちが「信じれば君にも分かる」と説いても、せせら笑うだけで取り合いません(この唯名論者の元祖がアベラール)。「神がいるという証拠を出せ」という唯名論と「信じれば分かる」という実在論は、本来的に平行線です。

 しかし、スコラ哲学が発展することになったのは、教父たちが一端、頑なな態度を横におき、敢えて唯名論の土俵の上に乗ることにしたからです。「よかろう。ひとまず神の実在は前提から外し、君たちの好きな言葉の論戦に興じよう。その上で、神の実在が証明されれば、いかに不信心な君らといえども神の実在にケチはつけられまい」。このようにして、唯名論者の投げた手袋を実在論者が拾うことによって始まったのが、(悪)名高い普遍論争です。教父たちはこの論争を通じて、言語から存在へのジャンプという不可能事を可能にする回路を模索することになります。幾多の「神の存在証明」は、このような背景から生まれることになった。

 信仰を括弧に入れれば、信仰内容についての権威がいったん失われるのだから、これは唯名論に近づくことである。なぜなら「信仰を括弧に入れる」とは、信仰の権威をいったんはずすことであり、たとえ対象が神の存在であっても、疑問を持たずに信ずることをやめて、なぜ神が存在するといえるのか、自分の掌において吟味検討することだからである。

 これは大きな、そして勇気のいる判断だっただろう、と個人的には思います。もし万が一、神の実在を証明できなければ、自ら神を否定するという墓穴を掘ることになってしまう。実際、教父たちの繰り出す神の存在証明は、いずれも決定的とはいいがたく、どちらかというと荒唐無稽なものです。ドーキンスのように、一つ一つ欠点をあげつらって嘲笑する者もいる。でも、私は彼らがリングに上がってくれたからこそ、その後の哲学と科学の発展があったことを考えれば、その勇気には敬意を表してよいと思う。

  • 言語はなぜ哲学の問題になるのか

 個人的に最も衝撃的だったのが、このポイントです。

 現代哲学に、分析哲学という分野があります。19世紀後半にドイツやオーストリアで勃興し、20 世紀に入って英米を中心に盛んになります。この分野を最初に勉強する日本の学生が少なからず驚くのは、その中心的なテーマが「言語」であることです。これは、日本での哲学のイメージがカント以降のドイツ観念論によって形成されたため、哲学と言えば観念を分析するものだ、という思い込みがあるためです。しかし、分析哲学は観念から言語へ、そのメインテーマを変えたのです(これを「言語論的転回」と呼びます)。

 従って、分析哲学はまるで言語学ではないかと思うぐらい、文法について緻密な分析を行います。哲学に何か深遠な真理を求めてやってくる学生の中には、無味乾燥な文法の講釈に幻滅する人も少なくありません(また、他の分野の哲学者からも「あんなのは哲学じゃない」と言われることもしばしばある)。
 西洋哲学の文法への常軌を逸したこだわり方には、私も特異なものを感じていました。ただ、同じ疑問を感じる人は海の向こうにも多いようで、分析哲学者のハッキングは、『言語はなぜ哲学の問題になるのか』という解説書を書いているぐらいです。

 しかし、ハッキングの本は、せいぜい遡ってもロックやホッブズあたりなので、本当に重要なところが分からなかったのですが、実は、文法研究の重要性にいち早く注目したのも、キリスト教の教父たちでした。なぜキリスト教において言葉が重要か。それは、「はじめに言葉があった」と聖書の最初に書いてあるので、言葉は神と同一、少なくとも対等の存在者だと見なされるからです(言葉を神が作った、とは書いていないので、もしかすると神より先に言葉があった可能性さえある)。つまり驚いたことに、言葉というのは彼らにとって「神」か、それに近い神性を意味するのです。

英語を学ぶ際に、名詞だ、形容詞だ、副詞だ、といって苦労していたとき、日本人のだれが神の発する言葉、あるいはキリストのことを考えるだろう。(p.97)
 

いうまでもなく論理学も文法も、ことばの使用に関する研究として、キリスト教哲学における特殊な重要性を持つ。キリストは「ことば」であり、正しいことばの使用こそ、キリスト教哲学を成立させる枢要な基盤だからである。(p.108)

 
「繰り返すが、「文法的」ということばは、中世のキリスト教的文脈においては、「神的」という意味に近づく意味をもっている。けして、わたしたちが英語をならうときに仕方なく覚え込まされた英文法のイメージを持たないでほしい。(p.109)

 文法の勉強をするときに神を思う人は、確かに日本人にはいない。もっとも、それは信仰の薄れた現代のヨーロッパの人々でも事情は同じようで、アンセルムスの文法を扱った作品は、ながらく「まったく意味のわからない作品」(p.96)とされてきたそうです。

 分析哲学者は、袋小路にはまりこんだ観念論から脱出するために「リングィスティック・ターン」を決めてドヤ顔でしたが、中世の教父たちがその様を見たら、「おいおい、今頃になって言語に回帰してきたのかよ。何週遅れだ」と呆れたかもしれない。

 以上、長くなりましたが、私がこの本から衝撃を受けたポイントを三点紹介させていただきました。本書ではこれ以外にも、可能世界と様相論理、生命倫理学の基礎概念であるパーソンの概念など、現代哲学の主要な概念が、実はキリスト教哲学にその淵源を求められることを明らかにしています。中世哲学に興味ある方はもちろん、たとえ近代以降の哲学にしか興味のない人であっても、必ず得るもののある名著です。