病気になるのは誰のせい?

 麻生総理の病気になるのは自助努力が足りないからだという趣旨の発言は、それ自体としては別に珍しくも新しくもないものです。「健康管理は自己責任。だから病気になったとしても、それは自業自得。そんなダメ人間どもの面倒を国家が見る必要はない」という考え方は、19世紀から欧米では、自由主義的な思想として普通に存在していたものです。現代だって、アメリカはそういう考えのもとに国民健保制度を持っていない。

 仮にこの世の中を「支える側」と「支えられる側」にすっぱり分けたとすると ―― 現実にはもちろんこんな綺麗には分けられない ―― 麻生総理のような健康な富裕層は、圧倒的に「支える側」に回ることが多い。保険というのは、そういう仕組みです。だから、彼が私人としてそういう仕組みに不公平感を持つことは当たり前で、別に非難されるべきことではない。世間はエゴイズムに支配される小物小人の集まりです。誰だって、自分が支えてばかりの側にたたされたら嫌に決まっている。

 でも、政治家というのは公人です。公人とは、私人としてのエゴイズムをとりあえず棚にあげて考慮しない、という態度を求められるものです。これは別に国家公務員法で決められていることではないけど、公権力を行使できる立場にある人間には、求められて当然の義務だと、私は思います。

 さて、私から麻生総理について言いたいことはこれだけですが、この発言に関して面白いと思ったことがもう一つあります。それは、自己責任論の範囲がどんどん拡大されていることです。

 自己責任という考え方は、今までは主に経済的な格差を肯定するために使われていました。貧乏人が貧乏なのは本人の努力が足りないからであって、救済の必要はない、という、日本でも既にお馴染みの論法です。最近、明治・大正期に活躍したフェミニスト山川菊栄のテキストを読んでいるのですが(余談ですけど、いいですよ、この人は。目立たないけど、伊藤野枝平塚らいてうよりこの人を読んだ方がずっと勉強になる)、その中にも「個人が貧に苦しむのは自己の努力の不足に起因する、いわば自業自得の結果であるといったような、きわめて手軽な安価な、そして紳士閥社会の理論を裏づけるような結論」(「母性保護と経済的独立」1918)という言葉が出てくる。要するに、私たちはほとんど100年間、この同じスキームの中でああだこうだ堂々巡りをやっているわけです。

 でも、これが健康についても当て嵌められるようになってきたのは、少なくとも日本に限ってみれば新しい局面のように思います。私が子供の頃は、生活習慣病は「成人病」と呼ばれていましたが、後者が「大人になればみんな遅かれ早かれかかる仕方のない病気」というニュアンスを伴うのに対し、前者は「本人の心がけ次第で食い止めることの可能だったはずの自業自得の病気」という含みを持ちます。

 2002年に健康増進法が制定されたあたりから雲行きが怪しくなっている気はしていたのですが、国は、本気で福祉から手を引くことを考えているのだろうか? もしそうだとすれば、モデルは(今の)アメリカ以外にありえないのだけど、そのアメリカで政権をとった民主党国民皆保険制の導入を党是としていることを、どう考えているのだろう。

 あれ、もしかしてそれでオバマが大統領になった知らせを聞いたときに、麻生総理は苦い顔をしていたのかな。